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<title><![CDATA[Ｃａｆｅ　Ｖｉｔａ]]></title>
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<title><![CDATA[余震の中で新聞を作る６８～語り部との旅・南三陸町]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/jluY9IRW4kPzVnho6OJt</link>
<description><![CDATA[　『「左手に見えるのが戸倉小です。子どもたちは近くの高台に逃げ、この世の地獄を見ながら寒い一夜を明かしました」<br />
　町中心部が津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町を４月２１日、バスツアーが訪れた。鉄骨がむき出しとなった戸倉小体育館のそばで停車し、地元の震災語り部ガイドの菅原清香さん（６０）が震災当日を振り返ると、車内からはため息が漏れた。<br />
　ツアーはＪＴＢグループが扱い、全国から個人旅行者１０人が参加した。南三陸のほか、岩手・平泉や宮城・松島、山形・山寺を２泊３日で回るプラン。南三陸町でのプログラムには町観光協会が協力し、津波浸水地域を３時間かけてじっくりと回った。<br />
　「あぁ…」。大破した船や、患者が大勢亡くなった病院を目の当たりにして言葉を失う参加者。「家族を亡くし、まだ家から一歩も出たくない人も大勢いる」。菅原さんが体験を交えながら話すと、涙ぐむ人もいた。』　<br />
<br />
　５月１日の河北新報朝刊１面にあった連載<a href="http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20120501_03.htm" target="blank">「東日本大震災　焦点」。「被災地ツーリズム拡大（下）／震災語り部、伝える真実」</a>の見出しで、宮城県南三陸町の「震災語り部ガイド」を活動を、次のような期待感とともに伝えていました。<br />
　　『震災体験を話す語り部を務めるのは、町内の「ガイドサークル汐風」のメンバー。団体の視察なども含め依頼が相次いでおり、６月までは予約でいっぱいという。　町観光協会の及川和人さん（３１）は「震災で何を失い、何を学んだのか、ガイドが町民だから重みを伝えることができる。学びの場として訪れてほしい」と強調した。　産業の柱だった観光の復活は町の復興に欠かせない。「今後は漁業体験などを組み合わせ、積極的な情報発信も検討する。ツアー客に繰り返し足を運んでもらうよう努力したい」と及川さん。将来の観光需要を支えるリピーター拡大に意欲を見せる。』<br />
<br />
　地元商店街の人々が昨年４月末の連休に２０のテントを連ねて旗揚げし、毎月最終日曜にベイサイドアリーナ（町総合体育館）前で開く「福興市」。地元・志津川湾の季節ごとの海の幸（名物のタコやサケ）、大漁旗をリフォームした帽子や衣料品をはじめ、これまで交流してきた全国の商店街（酒田市、笠岡市、福井市、鹿児島市、愛媛県三瓶町、小浜市、鶴岡市、長野県下諏訪町、浜田市など）の特産品、各地の支援者が届ける生活応援の品々、そして、志津川中吹奏楽部の出前演奏、多彩なライブイベントなどでにぎわってきました<a href="http://fukkouichi-minamisanriku.jp/" target="blank">。（福興市の公式サイト参照）</a><br />
<br />
　震災語り部ガイドは、町民の有志が結成し、同年５月２９日の第２回福興市に参加し初めて、町外から訪れた客に自らの津波体験を語りました。以来、福興市の会場や、窓口の町観光協会に申し込まれた被災地訪問ツアーの案内などを活動の場にしています。私がメンバーの活動に触れたのは、まだ冬のさなかの今年２月３日。この春、河北新報の編集局に入った新人６人の内定研修に同行し、石巻市、南三陸町の被災地をバスで訪ねた時です。佐藤かつよさん。銀色に輝くと表現したい美しいショートの髪の、凛とした女性でした。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
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　冒頭の記事にもある、南の石巻市と境を接する同町戸倉地区を、まずバスは巡りました。町内には、うっすらとした雪。校舎の３階まで津波にのまれたという戸倉小を経て、高台の戸倉中へ。校庭には仮設住宅が立ち並んでいました。「３月１１日、小学校は卒業式の歌の練習の最中でした。近くの小高い五十鈴神社に避難し、ほこらで、全員が歌を歌って寒い夜を過ごしたそうです」<br />
<br />
　津波の後がいまだ生々しい海岸線を、バスは中心部の志津川へ。佐藤さんは語ります。「震災前の志津川の湾はもっとキラキラと、養殖いかだの浮きが光っていました。ワカメも豊富で、それをアワビは食べ、アワビを食べるマダコも有名で、ホタテ、カキ、ホヤも志津川の特産でした」「湾内には、椿島、竹島があいますが、津波の直前、その島まで海の水が引き、底が見えたそうです。陸地と同じように山も谷もあり、その谷を、海の水が川のように流れていった、と」<br />
<br />
　湾に面し、大半の家々が流された志津川の町で、目に入る建物は一握り。その１つ、公立志津川病院は、入院患者１０７人のうち７２人と、看護師と看護助手計３人が死亡・行方不明に。入院患者の多くが自力で歩くのも困難な高齢者だったといい、病院の東棟（４階）と西棟（５階）の４階まで津波は達しました。「５階に避難した人が助かりましたが、低体温症で亡くなる人もいました。電気もなく、ぬれた状態で、気温も低く。使い捨てのビニールの手袋や新聞、紙おむつで、翌日、自衛隊のヘリに助けられるまでしのいだといいます」<br />
　病院の近くにある４階建ての建物は、総合結婚式場の高野会館。大地震が起きた当時、館内には利用客や従業員ら約３３０人がいました。宴会場は老人クラブの「高齢者発表会」が行われていましたが、「その時、会館の営業部長がとっさの判断で『命が惜しかったら、ここを一歩も出るな』と止めたのです。その場に残った人たちは全員、助かりました」。<br />
<br />
　町の西側には山が迫り、高台に志津川高校が見えます。その隣に、特別養護老人ホーム「慈恵園」がありました。「あの日、施設の屋根裏３０センチまで津波が来たそうです。７０人くらいの人がいましたが、多くが亡くなりました」と、遠くを見つめて佐藤さん。<br />
　『（慈恵園の）棟続きの町社会福祉協議会の施設は、津波など災害時の指定避難場所でもあった。南隣のさらに高い場所にある志津川高に高齢者を避難させようとしているさなか、大津波は車いすを押す職員と、まだ入所者らが残っていたホームに襲い掛かった。入所者とショートステイ利用者計６７人のうち４６人が死亡、２人が行方不明になり、職員も１人が亡くなった。』（昨年６月６日の河北新報朝刊<a href="http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1072/20110606_01.htm" target="blank">『ドキュメント大震災　その時　何が（２０）』）</a><br />
<br />
　そして、被災地・南三陸町の象徴のような場所となった町防災対策庁舎も、バスから見えました。赤い鉄骨だけを残す姿で。「２階の防災無線の放送室で、職員の遠藤未希さん＝当時（２４）＝が、最後まで住民に津波からの避難を呼び掛け、犠牲になりました。高さ１２メートルの庁舎に職員３０数人がいて、そこに高さ１５メートルの水が来たのです。生き残ることができたのは１０人でした」<br />
　（私が取材で志津川を再訪した３月１４日、防災対策庁舎の下には何人もの人影が見えました。行ってみますと、壁もなくなって吹きさらし状態になった１階の玄関跡には、焼香台が置かれ、千羽鶴や花がたくさん供えられ、鎮魂の祈りの場になっていました）<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　「（志津川の中心部を取り巻く）気仙沼線の線路の東（海側）はすべて住宅街で、びっしりと家が建て込んで、空き地がなかった。（真ん中を流れる）八幡川を津波が上ってきた速さは時速３０キロといわれましたが、『新幹線より速かった』という目撃談もあります。町はがれきの山になり、国道４５号沿いに３・５キロも奥まで津波は来ました」<br />
　「水道は３カ月以上止まり、変電所も全壊し、商店もスーパーもすべて流出、全壊しました。（山を造成した）高台にある商工団地に、仮設の店、移築の店が開かれ、仮設住宅４０棟が建てられました。ベイサイドアリーナの前に診療所もできましたが、これはイスラエルの医療団が建ててくれました。家に電気が通ったのは、津波から７５日目でした」<br />
<br />
　こうした話を聴くうちに、バスは商工団地に近いベイサイドアリーナに着き、佐藤さんは館内のロビーに私たちを案内しました。津波の前の志津川の町並みや人々の暮らし、四季の風景や祭り、そして、被災後の惨状～失われたものを対比して見せる写真パネルが並んでいます。その１枚１枚の前で、語り部の話は続きました。<br />
　ふと目に入ったのが、やはり展示されていた「震災のうた」と題する墨書の色紙。同町の神職で、自宅を失った工藤真弓さんという女性が、避難所でつづった五行詩でした。ノートに書きとめた何編かを紹介させてもらいます。<br />
　「広報で　警報を呼びかけていた　女性の声が　途切れる」「やめて　やめて　津波に　叫びながら　逃げる」「神社の裏山まで　逃げる　町の悲鳴が　足元に響いている　泣いているのに」「津波が去って　夜が明ければ　無残　ひよどりが　慌てて飛んでいく」「町は　消えていた　あまりに非情で　声が出ない　涙も出ない」「海は　無情に　春の海　かがやいている　嘘だと言っているの？」<br />
<br />
　語り部は、自らのことも話しました。「なぜ語り部になろうとしたのか」の理由とともに。<br />
　ベイサイドアリーナの近くの団地に住む佐藤さんは、あの日、病院で薬をもらって自宅に戻った後、大地震に見舞われました。帰り道には親しい友だちの家に立ち寄るのが決まりでしたが、なぜか寄ろうという気持ちになれず、真っすぐに帰宅したそうです。その後、その親友が津波に巻き込まれたかもしれないという話を、避難所になった集会所前で会った共通の友人から聞いたといいます。その家は、防災対策庁舎のすぐ前にありました。<br />
　「わたしは地元出身ですが、東京で働いて、帰ってきたのが１０年前。その人と出会って、まだ４，５年しかたっていないけれど、何でも頼れる友でした」「南三陸町では８５０人以上が津波の犠牲になりましたが、それぞれに、きょうだい、友だち、身内がおり、残された命、生かされた命があります。そんな自分たちには、伝えること、伝えたいことがあります」<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　語り部の話を聴いてきた６人の若者から、質問の声が上がりました。「いろいろ場所で起きた出来事の証言を、どうやって集めているのですか？」。佐藤さんは「仮設住宅を回って話を聴いたり、知り合いに会って聴いたり。（住民が集まる）復興計画の説明会の折にも」。<br />
　「ご自身のつらい気持ちを、語り部としての使命感が上回る、その思いは？」という問いも。佐藤さんは、こう答えました。「自分を動かしたものは、この惨状を知ってもらい、支援をしてもらい、１日も早く町を復興させなくては、という気持ち。だから、発信をしなくてはならないんです」<br />
<br />
　３つめの質問が、「被災地の外では、『現地に行ってはいけないのでは』という声もあると聞きます。遠く離れた人たちに、どうしてほしいですか？」。これに佐藤さんは、「個人でやって来るのは大変。また、ここで働くことだけがボランティアではなく、『被災地を忘れない』というメッセージをもらうことも力になる。旅行業者が１泊２日のツアーを組んで、福興市に大勢の人が来ています。東京時代の仕事の後輩も来てくれました。『ここで何かを買うことで、復興に役立てるね』と。顔を見せてくれるだけで、力になるんです」。　<br />
<br />
　「語り部としての心境の変化はありますか？」という質問には、「感情的にこみ上げるものはあったけれど、時を経るごとにコントロールできるようになりました。悲しいことも、時が少しずつ癒してくれるのかな。でも、復興のことを考えると、時を経ても忘れられては困ります」<br />
　続けて「『忘れる』と『伝えたい』。このせめぎあいの中で、語り部を続けていくことの不安は？」と問われ、佐藤さんは「自分自身のつらい部分を話すことは、やはりつらい。語ることは、それを蒸し返すことであり、葛藤があります。もうひとつは、被災地を見たいという希望がある一方で、その惨状を伝える風景が復興の過程でなくなっていく、ということも起きていくのでしょう」<br />
<br />
　最後に、「これから、どんな町にしたいですか？」という質問も。語り部は「何もかもなくなりました。昔の町でなく、新しい町をつくらなくては。『復興の町』として、世界に発信できる町をつくりたい。自然災害に強く、安全で、新しい産業が生まれて、町外に出た人が戻り、外との人の交流も増える町に」と、願いを込めて話しました。<br />
　このやり取りを静かに見守っていた町観光協会の及川さんは、「南三陸町が観光地として復活し、語り部のみなさんが観光のガイドとして訪問客を迎え、活躍してもらえる日を信じています」と語りました。福興市のにぎわい、そして語り部たちの思いに触れる人が１人ずつでも増えてくれるように、と。<br />
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<br />
　５月９日の河北新報朝刊には、「東日本大震災／宮城・南三陸町、教育旅行を再開／震災後初の受け入れ　東京の高校生ら４００人」という見出しの、こんな記事が載りました。町の人々にとって大きな朗報となったことでしょう。<br />
　　『南三陸町観光協会は７、８の両日、東日本大震災後初めて教育旅行を受け入れた。東京都北区の私立桜丘高の３年生と教職員約４００人が被災地を巡り、町民が話す震災体験に耳を傾けた。<br />
　生徒はバスに乗って震災体験を伝える「語り部」の話を聞き、がれきが残る町内を回った。仮設魚市場など３カ所では、基幹産業の水産の現状などについて町民から説明を受けた。塩野目南帆さん（１８）は「津波の被害に遭っても、海と共に生きようとの思いが伝わった」と話した。　同校の３年生は卒業記念事業として、これまでマナー講習などを行ってきた。ことしは教職員を中心に被災地を実際に見せたいとの声が上がり、南三陸町を訪れた。<br />
　平美佐子校長は「自分たちの目で見て、生の声を聞くことで命の大切さを知り、災害に遭っても大丈夫なよう心構えを身に付けてほしい」と語った。<br />
　町観光協会は２００９年に旅行業登録をし、農漁業体験を取り入れた教育旅行で１０年度に１３００人を受け入れた。１１年度は２０００人の予約があったが、震災で全て中止になった。<br />
　町観光協会は本年度、桜丘高以外に山形県の小学校の修学旅行など２校を受け入れる予定だ。観光協会の及川和人さん（３１）は「今は震災教育がメーンだが、町の復興に合わせて少しずつ体験学習も再開させたい」としている。』<br />
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５月１日の河北新報朝刊から<br />
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にぎわう南三陸町の福興市＝昨年８月の第４回]]></description>
<pubDate>Sun, 13 May 2012 03:13:38 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
<item>
<title><![CDATA[余震の中で新聞を作る６７～仮設の日々を支える／までい着の母 ]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/GjTgqznevo0IfpXdhxuY</link>
<description><![CDATA[ 　「あの娘可愛やカンカン娘　赤いブラウス　サンダルはいて♪」「忘れられないの　あの人が好きよ　青いシャツ着てさ　海を見てたわ♪」「待てど暮らせど　来ぬ人を　宵待ち草の　やるせなさ♪」<br />
　ふりむいて雅美さん（本名・国分）が、緑の着物で鉦太鼓を鳴らし、あるいはバイオリンを奏でる明治の書生の扮装で、踊り、歌います。懐かしの昭和歌謡ヒットパレード、「金色夜叉」の貫一・お宮の早変わり一人芝居、おてもやん、南京玉すだれ、昔の飴売り・・。<br />
　昭和の大道芸を歌と笑いのライブ公演にした「ちんどん雅（みやび）組」を仙台で主宰し、ギターのSleepy上野さん（本職はライブハウス経営）ら一座と３月１３日、福島市松川町にある同県飯舘村の松川工業団地第１仮設住宅の集会所で２時間近く熱演したのでした。<br />
　この日は、第１仮設自治会（木幡一郎会長・１１１世帯）が月に１回催す「いきいきサロン」のお楽しみ会。６０～８０代の入所者約６０人が詰め掛け、国分さんの一芸一芸に大笑いし、花笠音頭を一緒に踊りました。国分さんは私が取材で知り合った人で、第１仮設の世話役（管理人）、同村飯樋の佐野ハツノさん（６２）から、３月のお楽しみ会のゲストを探していると聞いて、縁をつながせてもらいました<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/1t9BlrRLaKJxneYs5byX/" target="blank">（『余震の中で新聞を作る４６～仮設の日々を支える』</a>参照）。<br />
<br />
　国分さんは、日本笑い学会みちのく支部のメンバーでもあります。幕間のトークで、「ある会社で、働き盛りの男性約１００人の前で『笑い』について講演をした時、週に１回も笑わない人はいますか、と尋ねたら、なんと２割も手を挙げました」「笑う人ほど怒りを内にためにくく、笑わない人ほどうつになりやすいそうです」と、笑いの効用を説きました。<br />
　そして、用意した割りばしをみんなに配り、それを横にして歯でかんでもらい、「さあ、鏡に映してみて。ほおがよく上がって、これが、いい笑顔の作り方。気持ちが落ち込んだ時は、いつでもやってみて」と実演。<br />
　顔を見合わせて大爆笑する会場の人たちと、にぎやかなやり取りが続く中で、「しばらくぶりで笑いました。ありがとう」と涙をふきながら語る女性がいました。私はその様子が気になり、ライブが終わった後、声を掛けてみました。<br />
　菅野ウメさん（８１）。その名前は、実は以前から、佐野さんから伺っていました。やはり前述の「余震の中で新聞を作る４６」で紹介した、佐野さんら第１仮設の女性有志が昨年秋から始めた着物のリフォームの活動「までい着作り」（『までい』は、手間暇かけて、丁寧に、大切に、の意味）で、メンバー１１人の「カーネーションの会」で「師匠役」と聞いていた人でした。「今は、戦争中より希望がなく、つらい。あの時、声を掛けてもらえなかったら、わたしは今、ここにいなかった」<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　『福島県飯舘村の女性たちが福島市の仮設住宅で中古の着物を材料に作っている「までい着」が、３月から首都圏で売られることになった。昨年末に東京での頒布会で好評を呼び、販路も開けた。女性たちは「までいライフ」のタグも創作、特産品への夢を膨らませる。<br />
　作っているのは、松川工業団地第１仮設住宅自治会（１１１世帯）。昨年１０月に始まり、５０～８０代の女性１０人が集う。<br />
　部屋にこもる独居の高齢者が多く、「昔の生活にあった再生着を皆で作っては」と、管理人の佐野ハツノさん（６２）が提案。これまで仙台市や東京などから中古の着物が百箱以上も寄贈された。<br />
　東京での頒布会は先月２９日、村の支援者が新橋で企画。佐野さんらが紡ぎ、正絹の着物を直した手縫いの綿入れを４１着持参したところ、「柄が多彩で品もいい」とほぼ完売の人気で、約５０万円の売り上げがあった。<br />
　までい着を商品として扱う話がまとまった先は、大手流通グループ傘下にある東京近郊のデパート。同じ支援者の仲介で、３月１０日ごろから「飯舘コーナー」を設ける意向だという。』（１月１６日の河北新報記事）<br />
<br />
　『福島県飯舘村の女性たちが仮設住宅で創作した「までい着」を、東日本大震災から１年の１０、１１の両日、千葉県柏市のデパートで販売する。宮城県内などから寄せられた着物を再生。作り手は福島市から相馬、伊達両市の仮設にも広がった。女性たちは「『までいライフ』の心と帰村の願いを首都圏の人たちに伝えたい」と話している。<br />
　（中略）販売の場を提供するのは、そごう柏店。１０、１１の両日、６階婦人服売り場に「飯舘村支援バザー」のコーナーを設ける。東京にいる村の支援者が、橋渡しをし実現した。同店は「昨年も宮城県の被災地支援の物産展を開いた。飯舘村のため多くの人に来てもらえたら」と応援する。<br />
　当日は、佐野さんら作り手十数人が商品とともにバスで会場に向かい、普段着のほか、はんてん、Ｔシャツ、手まり、小物類など数百点を並べる。和服の多彩で美しい色、柄を生かした品々だ。<br />
　佐野さんは「愛着ある着物を寄贈してくれた人たちにも感謝して、仮設住宅発の特産品を世に出したい。会場では、帰村の日を待つ私たちの思いを、訪れる人に伝えたい」と期待している。』（３月４日の河北新報記事）<br />
<br />
　までい着は、記事のように３月１０、１１日、そごう柏店で展示即売会が催されました。初日の開場前に１００人以上もお客さんが並び、持参した品はほとんどが１日目に完売した、と佐野さんから聞ききました。<br />
　ウメさんは、飯舘村の村史をまとめたビデオを流した会場で、「までい着」を作る工程を実演したそうです。「見たこともない黒山の人だかりだった。わたしは１５０人くらいの人と話したと思う。持参した着物を裁っていたら、『これは、寄贈させてもらった祖母の着物です』と言う人がいた。偶然の出会いだったけれど、『大事な形見で、身を切られるような思いだったけれど、飯舘村のために役立ててもらいたかった』と。このまま、お礼もできないままで死ねない、という気持ちです」<br />
　集会所のざわめきの中でも、凛とした、しかし、張り詰めたものを秘めた表情と言葉に、私はあらためて話を聴かせていただかねばと思い、再会を約束してその日は去りました。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　次に第１仮設を訪ねたのは３月１９日でした。佐野さんにお願いし、ウメさんが１人で暮らす居室に一緒にお邪魔しました。「までい着作りを習いたい、という人が大勢出てきたんですよ」とウメさん。「着物を上下の普段着に直す時、初めての人にはズボンを作るのが難しいのだけれど、柏の会場でわたしの話を聞きながらメモを取ったり、静岡から２日間通ってくれた熱心な人もいたり。ある７０代のご夫婦は、『ぜひ、仮設を訪ねて習いたい』と言って、わざわざ福島に来て、きのう（１８日）まで２日続けて話を聴きに来てくれたんです」<br />
　やはり会場を訪れた、生け花と茶道をたしなんでいるという女性の客は「着物はたくさんあるけれど、娘はいらない、と言っている。あなたに役立ててもらいたい」と申し出たといい、実際に千葉県内から着物を段ボール箱８つ分も届けてくれた人もいました。<br />
　さらに、５月の連休明けにやって来る予定の女性たちが５、６組あり、「仮設は狭いので寝るところがない」と言うウメさんに、いずれも「寝袋持参で行きます」との返事をくれたそうです。<br />
　「そんな話を会場でしながら、わたしは泣いたんです。なんで泣いてるの？と聞かれました。うれしかったんです。こんなに、飯舘のわたしたちを思ってくれる人がいたことを、初めて知って」<br />
<br />
　ウメさんの自宅は、佐野さんの家に近い飯舘村飯樋にあります。田んぼと畑、畜産とタバコ畑を経営していた夫重治さんは２１年前、農作業中の事故のため６０歳で死去。息子さんは土地を借り、農水省や農協が薦めたコンピューター制御のハウスでのイチゴ栽培に友人と共同で取り組みました。市場で「味も日持ちも販売収入も日本一」といわれるほどの評判を取ったそうです。<br />
　「何千万円と借金をしたけれど、月１００万円分を売った時もあり、軌道に乗ったと思ったころに、あの（福島第１）原発事故があった」とウメさん。全村挙げての計画的避難が５月末から始まりましたが、ウメさんが自宅を離れたのは７月１７日。イチゴのハウスをはじめ、それまでの暮らしを奪われることに苦悩し、その日まで２週間、寝込んだといいます。<br />
<br />
　息子さんの家族と一緒に福島市内のアパートに移り、それからひと月、また部屋にこもり、寝込む日は続きました。「アパートの周りは農家。毎日、一生懸命に農作業をやっていたんです。それで、外に出るのも嫌になった。同じ農家なのに、『お金をもらって楽をしている』とみられると思うと」<br />
　息子さんは村の「見守り隊」に参加し、お嫁さんも外で働き、孫は地元の学校に通う毎日が始まりました。が、「部屋で寝ていても、窓のカーテンが目に入り、あれで首をつれたら楽になるな、と思った。そんな自分にふっと気づいた」とウメさん。でも、そのことがあって気持ちが冷静に戻り、第１仮設に行くことを選んだんです」。同じ地区の人たちが入っている、ということで。<br />
<br />
　第１仮設に移ったのは、９月の初め。入所者は知り合いばかりで、最初の３日間くらいは居室に訪問客が絶えなかったそうです。しかし、それで疲れてしまい、またカーテンを閉めて寝込む日々が戻ってしまいました。「なんでみんなは、にこにことしているんだろう。わたしはこんなにつらいのに」と。原発事故の前にはもう帰れず、明日にも希望は持てず、自分の居所さえ分からなくなっていました。<br />
　「生きていても家族の足手まとい。何もしてやれない。『ただいま』と家族が帰ってきて、温かいおかずを出して、食べてもらうのが楽しみだった。自分一人で作っても、おいしくない。食べる気持ちもわかなくなった」<br />
　訪問客にも応えず、２週間が過ぎたころでした。外でガラス戸をたたく音がしたのは。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　体を横たえていたウメさんがカーテンを開けると、佐野さんがいました。「相談があるの。ウメさんでないとできないことを、お願いしたくて」と言い、切り出したのが「までい着」の話。「仮設の入居者は高齢者が多く、目標をなくして気持ちが落ち込みがち。古い着物も大事にした、飯舘らしい活動をしましょう。そのために、ウメさんに師匠になってほしい」<br />
<br />
　私がウメさんの話を伺っている間、そばで聴いていた佐野さんはこの時、「ウメさんのを心配していた。最初はドアをたたいてみたけれど、出てもらえず、裏に回ってガラス戸をたたいた」と振り返りました。「ウメさんは、何でもできる人。とりわけ着物作りで村一番の名人と評判の人だったんです」。この誘いが、ウメさんの気持ちをよみがえらせました。<br />
　「６０年以上も前、母から受け継いだ着物作りを、生かすことができるのなら。わたしは、百姓であることが誇り。それは、百種類もの仕事をできる人、という意味だから」と。<br />
<br />
　ウメさんが初めて裁縫を習ったのは、１６歳の時だったそうです。戦争が終わってから、まだ２年というころ。「戦争中、尋常高等小学校で、わたしは級長でした。授業は『修身』だけ。戦死した軍人の墓掃除をしたり、山の炭焼き小屋から１５キロもの炭を背負って運んだりする勤労奉仕の毎日でした。重くて、みんなわんわんと泣いた。それから、戦争が終わって、食べていけるのは農家だけ、と親同士の約束で相手の顔も見ないまま結婚したんです。式の前に３カ月、親類の人が教える針仕事の教室に通った」<br />
　ウメさんの母親も針仕事が上手で、着物が好きな人だったといいます。「昔、実家ではカイコを飼っていて、その糸で１年に１０反くらい絹の反物を織ってもらった。それで作った着物を、結婚する時に母からもらった」「でも、子どもが育つと、古い着物を直してズボンや綿入れを作ったの。洋服なんて買えない時代だったから。大人の着物から、子どもの服が３つくらいできた」。それが「までい着」の原点のようですが、「第１号を作ったのは、うちの伯母だった」とウメさんは言います。<br />
　「昭和１８年、東京にいた伯母が実家に疎開して、着物から防空ずきんとズボンを作って持ってきた。当時の女の人の作業着は『もんぺ』だったけど、はきにくかった。伯母のズボンは、ゴムも入って動きやすく工夫されていた。あれが、最初の『までい着』。わたしも、それにならって自分で作るようになったんです」<br />
　<br />
　着物を通じての応援というあり方にも、ウメさんには懐かしさがありました。「村にはあのころ、鉛筆を買えないくらい貧乏な家もたくさんあった。よく『鉛筆を貸して』と言っていた同級生は、家が子だくさん。尋常小学校を５年でやめて、お母さんと２人、手間取り（手間賃稼ぎ）で田の草取りをしていた。その人が原町（現南相馬市）の呉服屋に勤めて、わたしは同級の２人の仲良しと『着物を買って応援しよう』と、展示会があるたび出掛け、助けたの。村の人たちも応援した。その人も頑張って、『店で一番の売り上げになった』『ごほうびで、外国に旅行してきた』と聞いて、うれしかった。みんなで喜んだ」<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　４月２９日の朝。黄金週間らしい青空に、満開の桜と菜の花、残雪の吾妻連峰が浮かんでいました。実家のある相馬市から南相馬市の原町、そして飯舘村、川俣町を経由して、福島市松川町の第１仮設へ。午前１０時から「いきいきサロン」のお花見会があり、お誘いをもらったのでした。<br />
　会場の集会所では佐野さんら女性陣が、豚汁や花見弁当の用意に追われていました。集会所前に大型トラックが止まって荷台のウィングを開き、その上にステージが設けられています。大きな幕には「桜まつり」の文字。<br />
　木幡会長がマイクを握り、「仮設に桜の木はないけれど、飯舘の桜は私たちの心に咲いている。いろんな人からもらった励ましを、心に咲かせることが一番大事」とあいさつ。「ああ、これは春祭りなのだ」と私は思いました。１年前、同村飯樋の八和木集落で春恒例の金華山の祭りを訪ね、それぞれに地元を離れる人々が、言葉には出さぬ別れの宴を過ごした日を思い出しながら<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/CiDcH4qT3JfuPIw6lZVg/" target="blank">（『余震の中で新聞を作る２６～飯舘村へ／金華山の祭り』</a>参照）。やがてステージでは、仮設の人たちが出演する「花より団子ショー」が始まりました。<br />
　<br />
　エアギターならぬ「スコップ三味線」奏者のゲストの熱演、得意の踊りを披露する「祝い船」や「浪花節だよ人生は」、そして「安来節」。面を付けた２人組のドジョウすくいに会場はわきましたが、「男踊りの方は、ウメさんなんだよ」と佐野さんが教えてくれました。<br />
　「お疲れさま。びっくりしましたよ」と、お面を外したウメさんに声を掛けると、思わぬ答えが返りました。「村の更生保護委員を長くやって、福島や山形の刑務所を仲間とよく訪ねたんです。お赤飯を持参して、もうすぐ刑期を終えて出るという人たちにごちそうし、慰労したい一心で安来節を踊って。きょうも、せっかくの日を楽しんでもらいたくて」<br />
<br />
　いろんなことをやってきた、とウメさんは３月１９日のインタビューでも語ってくれました。<br />
　「村の農業改良推進員も昭和３５年から２０年間。村では昔、ホウレンソウもネギも腐って育たず、みんな麦を作っていた。高坂庄助さんという普及所の先生が、酸性土壌のためだと突き止め、土壌改良をしたんです。立派な野菜が取れるようになり、農家の奥さんたちの農産加工の会が次々に生まれて、わたしも『スズラン』というグループの会長をやった。山からフキを取って、真空パックの漬け物にしたり。佐野さんも、漬け物の床のこうじ作りの講習を受けてくれたんだよ」<br />
　１９７５年、冷害続きだった飯舘村から、牛肉、シイタケ、しめ縄、ネコヤナギの枝など、季節の品々を詰めた特産パックを首都圏などに売り出した時には、運営組織「ミートバンク」の会長にも推されたといいます。ウメさんも、「までいライフ」の村づくりを自ら実践してきた人でした。<br />
<br />
　つかの間、仮設住宅に舞い降りた春。ベンチで花見弁当を広げながら、ウメさんは語りました。ドジョウすくいのひょうきんな踊り手とは、まるで違う人のような静かな口調で。<br />
　「柏での展示即売会を終えて帰りのバスの中で、カーネーションの会の仲間は、それまで頑張って『までい着』をたくさん作ったこともあって、『もうやめよう』と疲れ切っていた。でも、仮設に帰ってきたら、『また、やりたい、作ろう』と言ってくれた」<br />
　「本当に、村にまた戻れるのだろうかと思う。戦争中もつらかったが、希望はあった。今は、戦争中よりもつらい。でもね、今はひとつひとつ、希望をつくっていかなくてはね」<br />
<br />
　ウメさんの語った話を、４月６日の河北新報連載「ふんばる」で紹介させてもらいました。自身が見つけた小さな希望を、結びの一文にして。<br />
　「柏から帰ってきて、息子に『みんな、売れたよ』と電話で報告したら、『やっぱり、生きててよかったんだな』って言われました」<br />
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第１仮設住宅での「ちんどん」ライブで笑わせる国分さん＝３月１３日<br />
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４月６日の河北新報連載「ふんばる」]]></description>
<pubDate>Tue,  8 May 2012 18:00:00 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
<item>
<title><![CDATA[余震の中で新聞を作る６６～除染に挑む・飯舘　その５]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/j4h8VDXJInCotqNf2MPW</link>
<description><![CDATA[　４月１４日。およそ２カ月半ぶりの福島県飯舘村は雨に濡れ、山野にはまだ枯れ草の色が濃く、早春の肌寒さに眠ったままのようでした。もちろん、桜はつぼみ。目指したのは、同村佐須の農家、菅野宗夫さん（６０）の家。厳冬の１月１４日に訪ねた折は、かちかちに凍った田んぼの表土を５センチほどの厚さで、付着した放射性セシウムごとはぎ取る除染実験を、協働する<a href="http://www.fukushima-saisei.jp/" target="blank">首都圏の研究者らのＮＰＯ「ふくしま再生の会」</a>と行っていました（詳細と成果は、<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/7oAgLca3NkPRKuZyzGjV/" target="blank">『余震の中で新聞を作る５５～除染に挑む・飯舘　その４』</a>参照）。<br />
　その田んぼの雪解けを待って、４月の声とともにまた新しい実験をしている、と「再生の会」共同代表の１人、田尾陽一さん（７０）＝工学院大客員教授＝から電話でうかがったのでした。<br />
　菅野さんの家の前には、再生の会メンバーたちの車が何台も止まり、その車体の下などでは猫たちが雨宿りをしていました。昨年の全村挙げての計画的避難以来、隣の伊達市内に居を借りた宗夫さん一家の留守番役の５匹の親子猫です。訪ねるたびに子猫たちはだんだんと大人の面構えに変わり、その姿にも自然のたくましさを感じます。中では妻智恵子さん（６０）が焼き飯と手作り味噌の豚汁を振る舞い、遠来の参加者たちが体を温めていました。<br />
<br />
　凍った表土のはぎ取り実験が行われた菅野さんの田んぼに接する、地元の農家の田の一角がこの日の実験場所。放射性物質が拡散した昨春以来、作付けが禁じられた田んぼは枯れ野状態でしたが、雨の中、メンバーは雑草を抜き、水で満たし、金属製のロール状の仕切り板で〈１０メートル×３０メートル〉ほどの２つの区画を設けていました。用意されていたのは、直径１０&amp;#65533;くらいの６列の歯車、握りのある長い柄が付いた道具。田舎育ちの私はすぐ分かりました。田んぼの稲の列の間を手で押して雑草を取る「田車」（手押し式除草機）です。<br />
　除草剤や対極の「アイガモ農法」などが普及した現在の稲作現場で見る機会はほとんどありませんが、１６年前、取材で訪ねたブータン王国・パロ谷の田んぼで、農民が田車を一生懸命押していたのを見ました。故国で忘れられたこのローテク農具を同国に紹介したのはＪＩＣＡ派遣の農業指導者だった故西岡京治さん。機械や化学薬品と無縁なヒマラヤの冷害常襲地で「１２俵穫り」を実現させた、日本式稲作の象徴の1つになっていました。<br />
	<br />
　雨具をまとった３人の男性メンバーが、その田車を3台並べ、田んぼの端から力いっぱい押します。土と水が攪拌（かくはん）され、泥水がもうもうと広がりました。３人の後ろから、やはり意外な道具が続きます。テニスコート・ブラシです。２人の別の男性メンバーがやはり力いっぱい、大きなブラシで泥水を押し出します。実験田の区画の反対の端には水の排出口が開けられ、追い込まれた大量の泥水がそこから外へ、どっと流れ出ます。排出口から、泥水は実験田より一段低い隣の田に流れ込み、そこが一時保管の貯水池になりました。<br />
　「われわれは、『田車式除染法』と名付けたんだがね」と、青い雨具の田尾さん。「『凍土はぎ取り式』もそうだが、表土の深さ５&amp;#65533;前後に集まっているセシウムを、いかに効果的に除去する除染方法を確率できるか－が実験の課題。今回の田車式は、そうした特性のセシウムを、攪拌して巻き上げた泥水ごと外に押し流してしまう、というアイデアなんだ」<br />
（<a href="http://www.kahoku.co.jp/news/2012/04/20120419t63015.htm" target="blank">４月１９日の河北新報記事参照</a>）<br />
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　再生の会は１月末から３月にかけて、飯舘村にある２０の行政区のうち佐須を含む１９地区の田んぼで土壌サンプルを採取し（残る１カ所は落石で実施できず）、０～１６センチまで２センチ刻みの深さごとの放射能測定を行っていました。分析の中心になった東北大出身の岩瀬広さん（３６）＝高エネルギー加速加速器研究機構・つくば市＝は、パソコンを開いて１９地区の土壌セシウムの深度分布の表を示しながら、「粘土分や放射線量の多少で、また田んぼの１枚１枚で違いはあるけれど、おおむね深さ０～２センチにセシウムが集中しており、５～６センチまでを狙えばほとんどを除染できるはず」と語りました。<br />
<br />
　菅野さんと再生の会は４月１日、宗夫さんの田んぼの一角で１回目の田車式除染法の実験を行っていました。その結果、実験前後の土壌の放射能測定で、放射能の総量（キログラム当たり）は３７７１７ベクレルから、７１４３ベクレルへ、８１％も減っていました。<br />
　この結果を、再生の会は<a href="http://www.fukushima-saisei.jp/" target="blank">ホームページ</a>で公開しており、実験前後のセシウムの深度分布を比較しての仮説から「特に０～４センチの部分に集まっていたセシウムがほぼなくなり、表土をはぎ取った場合と同等の効果があり、また、その下の土の層にまでセシウムを拡散させることなく、汚染土壌のみの除染ができるという効果が得られた」と説明しています。<br />
	<br />
　この日の実験は４月１日に続く２回目。借りた田んぼは、地元の山の主であるイノシシたちに荒らされており、歩くのも難儀なほどの深い凹凸ができていました。「イノシシが冬、田んぼの土を掘り返すのは、餌になるミミズや球根の植物が目当てなんだ」と菅野さんは話し、これもまた飯舘村では普通の自然条件といえるのです。<br />
　実験前の菅野さん宅でのミーティングでは、「春の田植え前の代かき（水を入れて耕し、表土を軟らかく均す作業）と同様に、２０センチほどの深さまで凹凸を耕起して泥水を流し、前後のセシウムの量を測って、『５センチ』の場合と除染効果を比較してみよう」との狙いが話し合われました。<br />
<br />
　実験ではまず菅野さんが、「代かきローダー」という機械を取り付けたトラクターを田んぼに乗り入れ、大きな歯車の回転でたちまち水と土を混ぜ合わせ、泥水を排水しました。その隣に仕切られた区画で行われたのが、同じ凹凸のできた田んぼで田車で押して『５センチ』の場合の除染効果も調べようという、さらに別条件での実験でした。田車とテニスコート・ブラシのチームは２度、３度と出発地点に戻っては攪拌作業を繰り返し、干上がるまで泥水をかき出しました。そうして、また実験前後の放射線量を測ります。<br />
	<br />
　国は大型の機械を使っての表土はぎ取り・天地返しを主なる方法として、この夏から農地除染を本格的に展開する方針といわれます。「しかし、長年耕し、培ってきた田んぼの土をはぎ取られ、失うのは、農家にとって身を切られるのと同じ。その思いに応えられる形の除染はできはないか」（菅野さん）という現場の声と、放射線や物理、土壌学などの研究者の知恵が合体して生まれた対案が、農家の納屋に眠っていた伝統的な農機具をよみがえらせての「田車式」でした。<br />
　「機械の代かきによる除染という方法も国は挙げている。が、表土に固まったセシウムを、わざわざ田んぼ全体に拡散させるのではないか、との不安も農家にはある。除染に最も効果が高い深さの５センチで止められるのも田車式の利点だろう。大掛かりな機械がいらず、冬を除いて、いつでもやれる」と田尾さんは言います。「水には放射線を遮蔽（しゃへい）する効果もあり、作業中の被ばくも抑えられる」<br />
	<br />
	　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
	<br />
　実験は、成果のみならず新たな課題も生みます。田車式をめぐって、この日、参加者たちの議論は続きました。１つは、排水された泥水の処理です。メンバーの１人で土壌学の専門家、溝口勝東京大大学院教授（農学生命科学研究科）は「泥水は、９割が水で１割が粘土粒子。フィルターを排水口に設け、セシウムを吸着させた粘土分だけを漉（こ）し取ることは可能だ」と言います。<br />
　集落の近隣の農家が一緒に田車式除染を行い、それぞれの田んぼから泥水を集める排水溝を１本確保し、一番下流に当たる田んぼの１枚を「一時保管池」に利用するアイデアも出ました。その場合でも、「水が干上がった後、乾いてひび割れた粘土分を拾い集めて回収する方法もある。冬になれば、凍った粘土をそっくりはぎ取る方法が生きる」（溝口教授）。<br />
<br />
　ただ、１回目の実験で８１％の除染効果が得られた後の土壌も、コメ作付けの国の目安とされる５０００ベクレル／キログラムを超えています。そこで、田車式と併用して効果を上げる方法も実験した上で、この春に「実際に作付けテストを行いたい。土壌に残ったセシウムが、稲にどのくらい移行するのかを調べたい」と田尾さんは語りました。また、「セシウムの吸収が良いとされるソバや芋を、田車の除染の後に植えるのもいいのではないか」と、共同代表の１人、大永貴規さん（遊域計画表、地域プランナー）は提案しました。<br />
　先に記しました通り、村内でのコメの作付けは禁じられています。直轄による除染計画を提示した国も、試験栽培について公には言及していません。しかし、「帰村」と「生活・生業の再開」に向けての除染である以上、その効果は役所の机上のものでは足りません。<br />
	<br />
　　『政府の原子力災害現地対策本部は、福島第１原発事故で全域が計画的避難区域に指定されている福島県飯舘村のうち、長泥地区を５年以上生活できない帰還困難区域（年間放射線量量５０ミリシーベルト超）に見直す案を村に示した。<br />
　長泥地区は村の南端で、ことし２月末時点で７４世帯２７２人が住民登録している。政府が提示した線量分布図によると、地区の大半で放射線量量が５０ミリミリシーベルトをオーバーし、帰還困難区域の要件に当てはまる。<br />
　村は９日から県内５カ所で住民説明会を開き、村民の意見を聞いて政府案を受け入れるかどうかを決める。　長泥を除く地区は線量がほぼ５０ミリシーベルト以下で、居住制限区域（２０ミリシーベルト超５０ミリシーベルト以下）か避難指示解除準備区域（２０ミリシーベルト以下）に当たる。』（４月６日の河北新報朝刊から）<br />
	<br />
　政府が、福島第１原発周辺の市町村の避難区域見直し案の一環として、飯舘村に提示した内容です。協議の上、５月中には最終決定すると伝えられていますが、「帰村」が可能となれば、そこで生きていくための基盤を取り戻すことが必要であり、除染は、１日でも早く帰りたいという住民に実際の手掛かり、道筋を提供するものにならなくてはなりません。<br />
　雨の中の作業が終わり、再び菅野さんの家で、千恵子さんが作ってくれた「じゅうねん」（エゴマ）の甘い餅をほおばりながら、参加者たちの議論は続きました。「除染した田んぼ、除染しない田んぼを使っての比較の栽培試験をやりたい、と村に許可を申請しよう」と、村農業委員会会長でもある菅野さんは早速動き出すことを決めました。<br />
	<br />
	　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
	<br />
　次に佐須を訪ねたのは４月２９日午後。２週間のうちに、季節は駆け足で進みました。下界の郷里・相馬市では中村城跡の桜が満開で、同市内に避難した飯舘村大倉地区の仮設住宅の人々がバスで花見に訪れていた、と聞きました。前回は冷たい雨の中だった菅野さんの田んぼには暑いくらいの日が差し、１０人ほどの再生の会メンバーの姿が見えました。<br />
	<br />
　１回目の実験が行われた田んぼに、その時の何倍もの広さで水が張られ、それが４つの区画に仕切られています〈計約５００平方メートル〉。東西に連なる１つ１つの区画で順に、メンバーは攪拌を終えた後の泥水のかき出しを、例のテニスコート・ブラシを使って行っていました。前回と異なるのは、泥水が、それぞれの田んぼから１本の排水溝に流れ落ち、それが約５０メートルも先にある一時保管池につながっている点でした。「宗夫さんがユンボ（小型のショベルカー）で掘ったんだ。農家はすごい。何でもできるのだから」と、メンバーの１人。より大規模に田車式除染法を実践するためのモデルづくりと言えました。<br />
	<br />
　もう一点の違いは、主役が手押し式田車ではなく、６列分の除草が１度にできる動力付きの除草機であったこと。「若いボランティアが必要だよ」と中年世代が主力の再生の会メンバーが息を切らした手押し式と、スピード、効率は比べものになりません。しかも、深さ５センチほどの目標を正確にキープできます。「本格的にこの除染方法を広めるには、幅広く攪拌でき、しかも動力付きの道具が欲しい」と、その試作も課題になっていました。「市販の除草機だが、これにもう少し改良を加えたいな」と、運転した菅野さん。　<br />
	<br />
　前回までから規模を増した実験田について、「次はどんな異なる条件の実験をしているのですか」と尋ねると、岩瀬さんが「これはもう試験作付けに、と考えています」。５月下旬の作付けを想定し、４つの区画の西に連なる別の田んぼでも比較栽培試験をしたい、と。菅野さんは「試験作付けの許可を既に村に申請した」といいますが、成否の見通しがつかない段階です。<br />
　「国の許可が必要なのだろう。そもそも出荷を疑われる理由もないのだが、余計なことはやるな、というのが国の官僚だからな」「村の農家ではなく、研究者たちのＮＰＯがやる、という計画にしては」。田尾さんらも加わって、そんな話をしていた時でした。<br />
<br />
　田んぼの脇の道に一台の車が止まり、降りてきたのが菅野典雄村長でした。用事があっての通りがかりだったといい、実験田を見ると、一座の話に加わり、こう切り出しました。<br />
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　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
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　「（村の）１０００余ヘクタールの田んぼを除染するとき、この方法は実用的か。それとも、大変は大変だが、こつこつと国の方法で１０００余ヘクタールやればいいか」<br />
　「去年、（村の）ある人がゼオライト（セシウムの吸収を抑制する土壌改良剤）を田んぼにまいて（コメの栽培試験をして）測ったが、ただちに刈るように国から言われた。両方の方法をやってみて、実験して、比較しないと、結論は出せないのだが。それだけの差が出るのか、分からないのが（村としては）つらい。『田んぼの土をはいでしまって、その後でコメを作れなくなったどうする』という声が、村内から矢のように来ているんだ」<br />
　村では、これから国の除染計画の説明会が予定され、実際に始まるのは８月ごろの見通しといいます。住民の承諾を得られなければ、それも始まりません。村長は続けました。<br />
<br />
　「この大震災は、いまだかつてない３つの災害（大地震、大津波、原発事故）を１度にもたらした。たった一つのベストの答えなんかないんだ。『国直轄の除染事業だから、地元は国に口を出すな』ではなく、地元なりのソフト事業はやらせてほしい、と訴えてきた。自分たちでやれることは、自分たちでやらないと」。そのために、専門知識とアイデアを持つ再生の会に、各地区の現場の除染のあり方について知恵を貸してほしい、と言いました。　<br />
　「限られた面積で試験作付けをしたい、と村に計画を出している」と菅野さんが説明をすると、村長は「検証してみて、初めてデータは分かる。植えられるよう検討しよう」。<br />
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　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
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　夕方。作業が終わったメンバーと一緒に日焼けした顔で引き揚げ、菅野さん宅の向かいの小川で長靴の泥を落としていると、頭上の桜の枝が斜光に輝いているのに気づきました。飯舘村で見た、初めての桜の花です。濃い目のピンクがまぶしいほど。昨年の今ごろは、桜がどこに咲いていたのか、記憶はほとんどないのに。<br />
　「ああ、この桜はね」と、菅野さんが言いました。「昭和５０年代のことだが、私が会長をやっていた『酪農青年研究同志会』という団体が内閣総理大臣賞をもらったんだ。その記念樹なんだよ。桜の苗木をみんなに配って。創設者は、今の村長なんだがね」。突然現れた村長と、記念の桜。不思議な縁があったものです。<br />
　「千恵子がこう言うんだ。これまで『怒りの１年』だったけれど、これからは『行動の１年』だ、と。自分たちがやれることを探る１年にしたい」。桜に語っているようでした。<br />
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田車を押し、水と土を攪拌する＝４月１９日<br />
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代かきローダーによる実験＝４月１９日]]></description>
<pubDate>Thu,  3 May 2012 12:25:31 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
<item>
<title><![CDATA[余震の中で新聞を作る６５～再びの春　農の行方／その３]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/vySRx6tCoAU7fQhjE1DJ</link>
<description><![CDATA[　 「去年の夏、ヒマワリでいっぱいにした畑に、麦をまいたんだ」。南相馬市原町区萱浜の農業･八津尾初夫さん（６２）からこんな話を聞いたのは、１年前の津波で犠牲になった５人の小学生を偲ぶ「五本桜」が地元大甕小に植えられた３月２８日（『<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/xtjr7yRS8s5PGUnMopDf/" target="blank">余震の中で新聞を作る６２～卒業式と５本の桜』参照</a>）。この日、教員生活最後の離任式があった平間勝成校長（６０）を囲んだ校長室でした。<br />
　「以前は、花壇に春の花を植えたい、と八津尾さん宅に相談の電話をすると、奥さんの一子さん（津波のため５８歳で死去）が『そこにはこれとこれ、あそこにはこれを植えましょう』と、花壇の配置も面積も分かっていて、花のコーディネートをしてくれたものだったね」。平間校長の思い出話を受けて、八津尾さんの語りはやがて「今年の農作業をどうするか」へと、つながっていきました。<br />
<br />
　「ヒマワリでいっぱいにした」とは、津波の後、近隣の仲間の作り手たちが亡くなったブロッコリーなどの畑計７ヘクタールを、八津尾さんが「復興のため農地を荒廃させず、慰霊の場所にもしよう」と、種とボランティアを募って、見渡す限りのヒマワリを咲かせた畑のことです（『<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/dCTkXZUv3EqxByz7OLci/" target="blank">余震の中で新聞を作る３7～種まく人　その後／夏の日差す』参照</a>）。昨年は保全を引き受け、トラクターによる除草と耕運も丁寧に行った畑です。　<br />
　「今年も任せてもらえるなら、またブロッコリーを作りたい」との思いがありますが、個々の畑の現在の持ち主が地元を離れていたり、相続の事情があったり、また「１人では無理で、意欲と経験のある人と農業法人を作って取り組みたいが、今この状況で集められるかどうか」といった見通しの薄さもあったりし、実現は難しそうでした。<br />
　「畑を放っておいて、放射能交じりの砂が飛んだりしたら困る」と心配の声も寄せられ、麦を栽培している友人からもみを分けてもらって、自分の畑に麦をまいたそうです。萱浜は、市内の測定で放射線量が最も低い地域となっていますが、さまざまな受け止め方があるのはやむをえません。八津尾さんは３月末まで地元の区長との立場もありました。<br />
<br />
　「地元の市場でさえ、本来１個１００円のキャベツが１０円ほど。東電に請求すればいいが、年配の人は希望を持てずに農家をやめる状況だ。（福島第１原発事故の）放射能の風評さえなければ可能性はあるが、亡くなった農家仲間も同世代で、私たち下の年代の後継者は近隣の集落にいなかった。自分も年齢的に言って、すべてを元に戻すには遅すぎるという気がしている」。ベテランの篤農家に、寂しげな表情が浮かびました。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　次に八津尾さんを訪ねたのは、４月１２日の午後。見慣れた白の軽トラックの後について、原町区の高平地区にある大きなハウス群に着きました。農協の種苗センターです。震災前は、今ごろ何万箱という田植え用の苗が育っていた場所ですが、南相馬市全域で２年続けてコメの作付け自粛が決まり、必要とする農家に空いたハウスを貸しているのです。<br />
　八津尾さんはこのうち３棟を借り、２年ぶりの野菜の育苗をここで育て始めたところでした。昨年の秋から冬、山手の仲間のハウスを借りて１５０００ポットのパンジー、ビオラの苗を作って出荷した後、再びの春を迎えての本格的な農作業となりました。<br />
　広々としたハウスの空間には、冷たい外界の風を忘れさせる光が満ち、目に鮮やかな赤と青のポットが一番奥まで並んでいます。種まきをして育った苗を６日前に「鉢上げ」（ポットに移植）したという、ナス、トマト、ピーマン、シシトウ、オクラ、モロヘイヤ、カボチャ、スイカ、メロン…。苗といっても、トマトの芽はまだ４センチほどです。<br />
<br />
　「全部で３万ポット。震災前は例年４月１５日ごろから３０万ポットを出荷していたから、１０分の１だよ」と八津尾さん。「毎年５月の連休には、（原町区）旭公園でにぎやかな種苗市があり、それに向けて頑張って苗を作ったんだ。そればかりでなく、従業員とパートも合わせて８人くらいで、ブロッコリーの畑も１５ヘクタールの田んぼもやったんだから」。<br />
　ハウスを借りたことで、設備費、水道代も数十万円の負担となります。「以前は自宅の井戸水があったから、１日に５トンも１０トンも、好きなだけ水をかけられたのだが」。ほんの２年前の春のことがすべて昔語りとなって聞こえることに、私は呆然としました。<br />
<br />
　今年は出荷の時期も遅れ、５月１０日ごろになるそうです。４月４日、日本中に吹き荒れた春の嵐が、東北各地で風速３０～４０メートルの暴風となり、萱浜の自宅跡近くに建てたハウスもパイプが曲がるなどの被害が出ました。中の小さな苗も傷み、作業全体が遅れてしまったことが原因でした。「（宮城県）山元町などでは、津波の被災地に再建されたイチゴのハウスが暴風で潰されたと聞いた。気の毒にな。大変だったな」。春の嵐までが復興への追い討ちとなる、同じ被災地の農家ゆえの思いがこもっていました。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇　<br />
<br />
　八津尾さんの軽トラックが向かったもう１カ所のハウスは、萱浜の自宅近くにありました。昨年５月１日に初めて訪ねて以来、周囲の風景を埋めていた家々のがれき、つぶれた消防車、折れた石碑、むき出しのコンクリートの土台などが、うそのようになくなって、この数カ月の間、陸前高田や大船渡、石巻などで目にしてきた「何もない」風景がここでも広がっていました。<br />
　荒れ野に一点、黄色くまぶしいものが見えたと思ったら、道路脇の砂地に咲いた数十株のラッパスイセン。その後ろに、ブロックが積まれただけの焼香台がありました。ピンクのカーネーションと缶ビールが供えられています。<br />
<br />
　あの日、初対面だった八津尾さんが腰を下ろし一服した、自宅跡に唯一残った玄関の上がり口も、家の土台もろとも撤去されていました。ここに暮らしたことを懐かしむよすがも失われていくことに、八津尾さんはどんな気持ちなのでしょう。<br />
　昨年の今ごろ、「がれきがれきっていうけれど、つい１カ月半前はがれきじゃなかったんだ」という言葉を南相馬市の人たちのツイッター情報サイトで読んだことを思い出しました。その意味を、がれきさえもなくなった風景に立って、いまさらながら知った気がしました。<br />
　形見のように変わらずにあるものは、家の北側の屋敷林である９本のケヤキの大木。「津波にも倒れずに耐えたケヤキは、このまま生きてほしい。潮の塩分が地下に浸透し、根から吸い上げて枯れるのが心配だ」と、八津尾さんは何度も語りました。その枝々に目を凝らし、春の新芽を探しましたが、あまりに高くて分かりません。カメラのズームも使ってみましたが。<br />
　もう１つ、変わらずにあるものが、やはり昨年のさつきの空にも泳いでいた鯉のぼり。「元気が出るものを」と八津尾さんが庭に立て、以来そのままにしておいたそうです。遠くからでも分かる目印に、あるいは存在証明として。<br />
　<br />
　西部の開拓地の一軒家のように、ぽつんと立つハウス。その中の４分の１ほどの面積の地面に、ブロックに守られて、鉢上げされる前のスイカとメロンの幼い苗がありました。４月４日の暴風でハウスの天井が開き、芽吹きしたばかりの多くの苗がだめになったそうです。<br />
　八津尾さんはハウスの隅にある１トンタンクから散水をしました。水やりと、窓を開閉しての温度調節は人に任せられない、といいます。「暑い時に２～３時間、ハウスを閉め切っていただけで苗が焼けて（高温障害でだめになって）しまう。その分、苗を育てている間は、天気にも時間にも縛られて、遠出もできなくなるんだ」<br />
　ハウスを出ると、八津尾さんもまた周囲の風景に戸惑うような顔になりました。「田んぼも、家々の敷地も、細かいがれきは取りきれず、最後はショベルカーで表土ごと深さ１０センチ分くらい、はぎ取ったんだ。この地域の田んぼは、復興計画で区画整理され、１枚１ヘクタールの規模に拡大されるそうだ。しかし、５～６年は掛かる。今なら、やる気も意欲もあるが、５～６年先までは待てない」。八津尾さんは語り続けました。<br />
　「前にも言ったが、ブロッコリーも作りたい。が、必要な農業機械を買いそろえるだけで１０００万円は掛かる。今の状態では、借金する余裕がない。年齢的にもね」<br />
　「行政が、意欲ある農家に資金や機械リースを支援してくれたらいいが。誰を、担い手と考えているのか。去年はあれほど来てくれた外の支援者の人たちも、めっきり見えなくなった。知恵や力を貸してほしいのは、これから。このまま忘れられていくのかな」<br />
　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
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　『１１年産で作付け制限した原発周辺地域については、警戒区域と計画的避難区域は１２年産も制限する。一方、旧緊急時避難準備区域に関しては、全袋検査などを条件に作付けを認める。ただ南相馬市など同区域の４市町村は除染を優先し、作付けは自粛する意向だ。　制限を受ける地域では、除染や水田の保全にかかる費用を国や県が支援。データを集めるための試験栽培も実施する。』（２月２９日の河北新報記事から）<br />
　この記事にあった「試験栽培」は今年、南相馬市内で２５０カ所、計約４０ヘクタールで行われます。ひとめぼれ、コシヒカリを使って、田んぼの土から水稲にどれだけの放射性物質が吸収されるかを測定し、来年からの作付け再開に向けた除染に生かす計画です。試験栽培への参加者も募集され、八津尾さんも「参加して１０アール分、やってみることにした」と言います。ただ、仮に作付けが再開されて、コメの安全の基準値である１００ベクレル以下が確認されたとしても、風評ゆえ「売れるかどうか、まだ分からない」。  <br />
<br />
　これから田植えの準備も行わねばなりませんが、５月１０日ごろの野菜苗の出荷を終えた後は、８月に花苗の種まきをするまで、八津尾さんの計画はありません。「ゆっくり休もうか、旅でもして」と笑いました。<br />
　一子さんの生前は毎年、農閑期に休暇をつくり、夫婦の旅行を楽しんだそうです。「鉢上げや収穫の時の１人の人件費がいくらとか、日ごろ、あらゆることを考えて、『もうかる農業』を達成しようと頑張った。その分、休みも楽しんだ。息子に後を継がせたいためもあり、そうした姿を見せたかった。だけど、今年は本当にやることがないんだ」<br />
<br />
　昨年の津波で亡くなった前区長の後任となって、１年取り組んだ区長の仕事も３月末で終わり、「今は、気が抜けたような状態」と語ります。「毎朝、その日のスケジュールを書き出すうちに、手帳がいっぱいになった。やることは山ほどあったから」。萱浜の復旧に関わる住民の会合、市への要望活動や説明会開催、苦情の相談と対処、行方不明者の捜索、小学校の再開準備、通学路の除染、地区の合同慰霊祭の主催…。そして、「ひまわり大作戦」と銘打ち、多くのボランティアを萱浜に集わせたヒマワリ畑作り。「人のために動いた１年、無我夢中で動いた１年だった。今年は自分のため、と思うけれど」<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
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　八津尾さんと別れた後、萱浜の海に足を向けてみました。津波で砂浜が侵食され、波が目の前に寄せる海岸からは、破壊された防潮堤が消えており、土のうと盛り土でかさ上げされた帯が南北に延びています。市が復興計画案に示した高さ７・２メートルの新しい防潮堤の土台部分になると思われました。これから本格的に始まる工事に向けてか、まだ送電線が張られていない真新しい鉄塔の下を長大なベルトコンベアが走っています。<br />
　その両側、かさ上げされた帯の背後（西側）には、広い面積にわたって数え切れぬ盛り土の山が並び、ここに同じ計画案の「緩衝緑地ゾーン・海岸防災林」が造成されるのでしょう。そして、さらにその西側の荒れ地の風景は、八津尾さんが「１ヘクタールの田んぼへの区画整理案がある」と話した「農業再生ゾーン」に生まれ変わるのかもしれません。<br />
　その時、いったい誰が農業を担っているのだろうか？　遠くで動く工事のトラック以外、人影も見えない萱浜の集落跡を海岸からながめ、しばらく考え込みました。<br />
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芽が育つトマトに見入る八津尾さん<br />
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農協育苗センターに借りたハウス]]></description>
<pubDate>Sun, 22 Apr 2012 03:28:13 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
<item>
<title><![CDATA[余震の中で新聞を作る６４～再びの春　農の行方／その２]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/SO0GNVtJ15CzqasHWfmw</link>
<description><![CDATA[　４月７日の午後、南相馬市鹿島区の農業小野田等さん（５９）を訪ねた後の仙台への帰り道、福島県新地町で国道６号を西に折れ、鹿狼山（４２９・９メートル）のふもとの<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/bambi7jirushi/MYBLOG/yblog.html" target="blank">リンゴ農家・畠米七さん（４９）</a>の畑に立ち寄りました。<br />
　山麓の道の途中に大きな建造物の工事現場が現れ、大回りの迂回路を通りながら思い出したのは、この日の朝刊で読んだ記事（以下は７日の河北新報から）。<br />
<br />
　『常磐自動車道南相馬（南相馬市）－相馬（相馬市）インターチェンジ（ＩＣ）間が８日午後３時開通する。常磐道では東日本大震災後初の新規開通。９月３０日まで全車両が無料で通行できる。　同区間は１４．４キロで当面、時速６０キロに規制される。東日本高速道路によると、一般道走行で約４０分かかる南相馬、相馬両市役所間の移動時間が２５～３０分に短縮される。<br />
　（中略）相馬－山元（宮城県山元町）ＩＣ間（２３．３キロ）の開通は２０１４年度の見通し。福島第１原発事故の影響で、常磐富岡（福島県富岡町）－南相馬ＩＣ間（３２．７キロ）の開通は未定。供用区間の広野（同県広野町）－常磐富岡ＩＣ間も通行止めが続いている。』　　<br />
<br />
　これも復興の槌音と言うべきでしょうか。原発事故と津波の被災地で止まっていた高速道路の建設が再開され、国の復興予算の後押しで進んでいました。鹿狼山麓の現場はこのうち山元－相馬の一部。本来なら常磐道は２年後、首都圏と仙台を直結させるはずでした。　<br />
　道は、山林に拓かれたリンゴ栽培団地に入り、やがて「七印」とかかれた赤い大きなリンゴの形の看板が目に入ります。畠さんが経営する「七印バンビ農園」の目印です。周囲の雑木林はまだ裸の姿で、風の冷たさに、ダウンジャケットを羽織って車を降りました。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　前回訪ねたのは、東北が寒波に包まれていた１月２１日。３・５ヘクタールのリンゴ畑は、１年の始まりである枝の剪定（せんてい）作業のさなかでした。昨年３月の原発事故で長野県に避難し、一時廃業も考えた畠さんはその後、放射能にも等しい風評の壁の厳しさに自ら２０トンものリンゴを廃棄し潰す、という２度めの挫折を強いられました。しかし、「もう一度、うまいリンゴを作りたい」と再起し、すべてのリンゴの木の除染に挑む決意を語っていました<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/qtOLukhgm18SEcaxNDzr/" target="blank">（『余震の中で新聞を作る５７～リンゴ畑に吹く風／再起』参照</a>）。<br />
　七印バンビ農園の店の前には小型のフォークリフトがあり、肥料らしい袋が山と積まれています。「土壌改良剤が４００袋。今年も作ると決めた以上、安全でおいしくするための土づくりをしなければ」と畠さん。山の１つは「カキガラ石灰」。海のカキの殻を砕いて粉末にし、カルシウムのほか多様なミネラル分を土に補給し、酸性土壌を改良する肥料です。<br />
<br />
　もうひと山は「硫酸加里（カリウム）」。植物に必要な三大肥料の「窒素、りん酸、カリ」の１つですが、「どこの農協もこの春、水田の土に必ず入れるように指導していて、品薄で仕入れが大変だった」と語りました。<br />
　つまりは放射性セシウム対策。これについて福島県農林水産部は農業技術情報第２４号で、コメ作りの季節をを前に「試験研究の成果として、カリの施用が確実な吸収抑制効果を生み出すことが分かりましたので、放射性セシウムを含まない玄米生産に向け、カリ施用を進めてください」と全県の農家に指導しています。<br />
<br />
　きっかけは昨年９月下旬、二本松市内で収穫前の玄米から暫定基準値（当時）と同じ１キログラム当たり５００ベクレルのセシウムが検出された問題。同県農業総合センターの現地調査で、いくつかの要因の中でも特に「田の土壌の粘土が少ないために放射性セシウムの（粘土による吸着と）固定が少なく、稲の根から吸収されやすかった」点とともに、「土壌中のカリが一般土壌と比較してかなり少なく、セシウムを吸収しやすい条件にあった」（同県農林水産部の中間報告）ことが分かり、カリウムの役割が一躍注目されました。<br />
　畠さんは昨年、一定の吸収抑制効果があるゼオライト（土壌改良剤）をリンゴ畑に根気よくまいて、リンゴのセシウム測定検査で「不検出」の結果を得ました。「カリウムはリンゴ畑でも有効な対策になるはず」と考え、施肥を今年の春の作業に加えるつもりでした。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　丘陵の斜面に拓かれ畑から、貨物船が浮かぶ青い海が見えました。リンゴの木々の枝には、まだ硬そうな芽が膨らんでいます。<br />
　「これが、高圧洗浄機ですよ」。畠さんが見せてくれたのは、ハンドルとレバーが付いた長さ１・２メートルほどのパイプの先に、水を渦状に回転させながら飛ばすという特殊な噴射口がある道具。それが動力付きのポンプにつながっており、水源は１トンタンクを備えたスピードスプレーヤー。本来は消毒液を満タンにしてリンゴ畑の中を運転する、自走式防除機です。その後尾には「町の鉄工所に特注したんだ」という鉄のかごが付いて、ここにポンプを載せて固定しています。<br />
<br />
　高圧洗浄機を握らせてもらいました。ガンのように構え、何気なしにレバーを引くと、ものすごい勢いで水が飛び出し、その反動が強すぎて、数秒も持ち続けることもができません。水の圧力は、１０メガパスカル（Mpa／１平方センチ当たり１００キログラム）。<br />
　「やってみましょう」と畠さんは噴射口を高く持ち上げ、１本１本の枝の空に向いた側から水流を浴びせていきました。噴射口が付いたパイプも２カ所で微妙な角度に折れ曲がり、高い場所にある枝にも上から水を噴射しやすい形になっています。これには、理由がありました。<br />
　「県の果樹試験場が開いた除染作業の講習に参加して教わったんだが、去年の３月に降ったセシウムがより多く付着したと思われるのは、当然ながら空に向いた部分。皮が古くなってしわができたような個所には特にたまりやすい。そんな古い皮を吹き飛ばしながら、水流でセシウムを洗い流す。そのやり方で９割の除染効果がある、と試験場で聞いた」<br />
<br />
　畠さんがリンゴ畑の除染を集中的に行ったのは３月。「休みなしで毎日朝８時から夕方６時まで続けた。１日でタンクを２回、空にして。妻、親父にも手伝ってもらったが、慣れないと危ない操作をできるのは俺だけ。さすがに腕が痛くて上がらなくなり、ひどい筋肉痛で夜眠るのも、朝起き上がるのも大変だった。それでも、１日に１０アール以上の除染をやらないと、ひと月では終わらない計算で、シップをいっぱい貼りながら続けたよ」<br />
　新地町には、環境省経由で総額８０００万円の除染対策費用が下り、そのうち半分が果樹関係だったそうです。畠さんをはじめリンゴ農家７軒、計約２０ヘクタールのほか、産地となっているイチジクの栽培農家６軒、計約２０ヘクタールが対象になりました。<br />
　福島第１原発から約５０キロ離れ、町役場前の放射線量も比較的低いこともあってか（４月１７日が０．１７マイクロシーベルト／時）、町では当初、果樹関係の除染が予算化されていなかったそうです。昨年秋のリンゴ販売で深刻な風評被害を経験した畠さんら果樹農家が立ち上がり、緊急の要を町長に直訴し、年度末ぎりぎりでの除染事業が実現しました。<br />
　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　「リンゴ農家が人手を出し合って、機械も使い回しを市、共同で除染をやるのが理想だったが、今回は無理だった。剪定作業と時期が重なった上に期間も限られ、それぞれに機械を買って自助努力でやるのが精いっぱい。高圧洗浄機とポンプの一式で、２０万円も掛かった。この苦しい状況の中でも買えたのは、町が予算を確保してくれたからこそだ」<br />
　「あらゆる努力をしなければ、消費者に安全を伝えられず、風評にも勝てない。どんなにいいリンゴを作ろうとも。やはり去年、風評に苦しんだモモ産地のＪＡ新ふくしま（福島市）では、生産者に除染を義務付け、しれければ出荷をさせない、という方針で臨んだそうだ。高齢の農家の除染作業を助ける業者も出て。そこまでやらなくては、去年と同じことになってしまう」<br />
　原発事故のため農業そのものが存続の危機にあることを、畠さんらは町長に訴えたといいます。<br />
<br />
　「おかげで、いつもの年なら３月に終わっていたはずの剪定作業に、今も追われている。施肥もしなくちゃいいけない」と畠さん。厳冬期にリンゴの木の古い樹皮を削り取り、中で冬眠する害虫を駆除する「粗皮（あらがわ）削り」という作業もやらねばならなかったそうです。が、２８年前に福島市飯坂から移った初代経営者の父・栄七さん（８３）が「それを１人で、すべて引き受けてくれた。去年の苦労を共にした、家族の協力で乗り切れた」。<br />
　東京電力への損害賠償請求は、過去３年分の売り上げ伝票と、廃棄せざるを得なかった２０品種余りのリンゴの写真、その写真代と１００ページ以上の資料作成費、セシウムの測定検査を受けた「日本ＧＡＰ協会」のプログラム参加費などのすべてを添付して２月初めに請求し、３月末に全額支払いで合意した、といいます。個人ではなく、農家支援の団体を通じた交渉の結果でした。<br />
　「今年もう一度、リンゴを作れるだけのお金にはなった」。引き裂かれるような思いはあっても、今は、「もう一度」にかけられることでよしとするほかない、と。<br />
<br />
　リンゴ畑に本当の春が訪れるのは、５月。連休のころ、見渡す限りに白い花が咲くそうです。１年のリンゴ作りは、まだ始まったばかり。去年は渦中で通り過ぎた春の景色を、再び楽しめるのかどうか、畠さんにもまだ分かりません。<br />
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高圧洗浄機でリンゴの木を除染する畠さん.<br />
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店の前に詰まれた硫酸加里の袋]]></description>
<pubDate>Wed, 18 Apr 2012 23:39:13 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
<item>
<title><![CDATA[余震の中で新聞を作る６３～再びの春　農の行方／その１]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/qXJwB3rp2GoMzgbY8tvI</link>
<description><![CDATA[　昨年３月１１日から１年が過ぎ、再びの春が東北の被災地に訪れました。４月７日、通いなれた国道６号をまた車で南下し、南相馬市鹿島区に入ると、浜通り地方特有の明るくのびやかな田園風景に、農作業をする人の姿は一人も見えません。昨年、市内全域で作付が見送られた田んぼは、冬の間、津波をかぶった土をはがす除塩作業や伸びた雑草の除去が行われた後、再生の春というのに何事も起きぬまま、眠ったようでした。<br />
<br />
　『南相馬市地域農業再生協議会は１０日、福島第１原発事故を受け、本年産米の作付けを市内全域で前年に引き続き見合わせる中間方針案を全会一致で可決した。福島県によると、県内市町村で本年産米の作付け見合わせを決めたのは初めて。<br />
　同市は本年産米の安全基準となる前年産米が作付け見合わせに伴って存在せず、今年の作付けの可否が判断できないとして、２年続けて見合わせを決定した。今後は土壌調査と除染を進め、将来の作付け再開に向けた試験水田を開設する。<br />
　協議会にはメンバーの市や生産者団体の関係者、卸業者ら１７人が出席。「見合わせが何年も続くと生産意欲に支障が出る」「農地除染を徹底し、周囲に汚染が広がらないようにするべきだ」との意見が出た<br />
　副会長の鈴木良重そうま農協組合長は「２０１３年からの作付け再開を目指すために、今年は除染を重点的にやるべきだと判断した。昨年分に続き、補償を国に求める」と話した。市によると、市内には約３９００戸のコメ農家がある。本年産米については川内村などが作付け見合わせの方向性を打ち出している。』（２月１１日の河北新報記事）<br />
<br />
　今年もコメの作付け自粛が早々と決まり、農家は、希望がまた先送りされました。鹿島区北屋形の農家小野田等さん（５９）の家を目指し、集落のある丘陵の道に入ると、路傍には目に柔らかい黄緑色のものがたくさん出ていました。フキノトウです。長く寒かった冬の後、生まれたての生命の色に見えます。が、採る人はいません。放射性セシウムへの用心からです。郷里・相馬市の母親は「今年も、地元のタケノコが食べられない。山菜取りが大好きな隣家の主人も、がっかりしているよ」と語っていました。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　福島第１原発から北に３０キロ余り、緊急時避難準備区域の圏外で稲作とハウスのイチゴ栽培を営む小野田さんは昨年、同市が全域でコメの作付け自粛を決めた中で、自宅に小さな試験田を作りました<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/o9eip0CIls3MBnuKyWhQ/" target="blank">（『余震の中で新聞を作る４１～出来秋の憂い』参照）</a>。<br />
　「来年もここでコメ作りができるかどうか。まだその見通しすらない。放射能の影響の有無を確かめるコメを取る、試験田の田植えをやりたい。俺のコメを食べてくれてきた人たちが納得できる数字が必要」との決意で、収穫後の玄米の放射性セシウム測定検査（市による測定）を行ったところ、結果は、試験田内の２地点Ａ・Ｂでそれぞれ、Ａ／セシウム１３４＝１４・７、同１３７＝１５、Ｂ・同１３４＝０、同１３７＝１１・４（いずれもベクレル）。国の暫定基準値（キロ当たり５００ベクレル／２０１２年４月から同１００ベクレルに厳格化）をはるかに下回り、土壌の測定値も１キログラム当たりＡ＝７６０、Ｂ＝６５３と、同様に国のコメ作付の目安（５０００ベクレル）を下回りました。<br />
　「精米すれば、ゼロになる数値だった」と小野田さんは語り、「風評を農家自らが吹き払いたい」と念願した通りの結果になりました。が、同１０月に福島県が２０１１年産米の「安全宣言」を出した後に、福島、伊達、二本松各市内の一部の産米から暫定基準値を超えるセシウムが検出され、大きなニュースとなり、福島の農産物に対する逆風はさらに強まることになりました。「個人の努力では、風評に立ち向かえないのか」との挫折感もまた。<br />
<br />
　今年１月２日、私が正月で帰省した折に足を延ばすと、小野田さんは、出荷間近なイチゴのハウスに案内してくれました。丹精を込めた熟成土による糖度の高いイチゴ作りの話も上記ブログで紹介しましたが、顔色は冴えませんでした。「昨夏の猛暑続きが苗に影響し、元気がない」と言い、出荷が先行した近隣の産地では病気が出ていると聞く、と心配していました。<br />
 この時、既に同市は２年続けてコメ作付けを見送る公算が強まり、頼みとするイチゴにも不作の影が差し、常に前向きで快活な小野田さんから「ここにとどまって農業を続けるのは、思い通りに農業をしたいと望むのは、もう無理なのかもしれない」という言葉が、ため息とともにこぼれました。<br />
　「近所の農家が、遠く石川県の町に移っていった。ブロッコリーを大規模に作るといい、地元では県の公営住宅を提供してくれたそうだ」。やはり長野県に移った中通り地方の果樹農家など、福島県外に新天地を求める農家の動きを私も聞いていました。しかし、それが近隣の人の話となると、耐え続ける農家への波紋も広がります。<br />
　規模の大きなハウス農業をやめて、あるいは奥さんに任せて勤めに出たという知人、いわき市から四国へ移って畑作を始めたという友人。小野田さんの身近にも、そうした話は数々ありました。<br />
　「俺も、隣の宮城県でコメを作れないかと考えたが、おそらく気候的な理由で、長年栽培するコシヒカリを作っている所がない。それで実は、山梨県に何回か足を運んできたんだ」。郷里にＵターンし就農する前、大手重機メーカーの山梨のディーラーで長年働いて知人も多い、ゆかりの土地でした。移住しての就農受け入れをある町の関係者と話し合っており、そこに決めようかと思う、と。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　それからの小野田さんは、立ち寄っても、電話をしても、「体調が悪く、外にも出ていない」との状態が続いていました。「風邪を引いたのがきっかけで、寝込んでしまった」という元気のない声に、こちらの心配も募りました。訪ねた４月７日は春らしい日差しながら、風は寒く、小野田さんは自宅のこたつで温まっていました。「だいぶ良くなったよ」と。<br />
　隣で妻ひろ子さん（５８）が、「『風邪にしてはおかしい』と話していたの。１月１０日から、その月いっぱい寝込み、起きることもできず、ご飯を食べるのがやっと。頬はげっそりとやせて。心身症でも、うつでもない。なら、何なの？と。医者からは、『強いストレスがある。環境を変えなさい』と言われた」。昨年３月１１日以来，ため込んだ疲れとストレスが堰を切ってあふれ出、毒のように心身を侵した―。そうとしか思えませんでした。<br />
　「それで、山梨にはその後、行くことができずにいた。東京電力と交渉し始めたら、また不調がぶり返して。やり取りは、女房にやってもらっている」と小野田さん。この時、そうだそうだ東電から新しい書類が届いた－と、ひろ子さんが目の前で封筒を開けました。<br />
<br />
　 「ああ、合意書だよ」。そう言って中から取り出した１枚目は、「お支払い予定額のお知らせ」。以下のような一文が、算定額・お支払い予定額の数字とともに記されていました。<br />
　「弊社の福島第一原子力発電所および福島第二原子力発電所における事故に伴い、ご請求者様が被った損害に関して、ご請求番号○○○○で受付させていただいた賠償額のご請求につきましては、お支払い明細番号△△△△のお支払い明細書のとおりの賠償額にて算定させていただきました。（中略）ご同意いただける場合は、合意書にご記名・捺印のうえ、同封の返信用封筒でご送付くださいますよう、お願い申し上げます。弊社にて合意書を受領後、ご指定の口座へすみやかにお振込みさせていただきます。」<br />
　そして、２枚目が合意書。どちらも、小野田さん夫婦が自宅で営む「もっけの幸い」という農家民宿の昨年の損害に対する支払いの書類でした。「これに判を押せば、振り込まれるんだ」と小野田さん。「民宿の分はいい。だが、合意していないものがあるんだ。その交渉でまた、ストレスがたまって、具合が悪くなった」<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　その１つは、田んぼ１０ヘクタール分を作って、得意客を開拓して売ってきたコメです。南相馬市内にある東電の出先事務所から来る担当者と、請求書の内容を交渉してきたそうですが、「収入から経費を除いた分を支払ってもらえばいい」という訴えに対し、相手方はコメに関しては一定額以上を払えないという立場で、１月以来平行線のままだといいます。<br />
　小野田さんは、東電の資料で農産物の支払い基準だという「期待所得一覧表」を見せてくれました。雑穀、野菜、果樹など多様な作物ごとにコード、１０アール当たりの期待所得額、年間作付け可能回数、期待所得率が並び、それが「雨よけ」「露地」（ピーマン）、「促成」「露地平坦地」「ハウス平坦地」「露地高冷地」「ハウス高冷地」（アスパラガス）などに細かく分類されています。例えばナスは、８２３６４６円（期待所得率４８パーセント）。<br />
　これはもともと、ＪＡグループ東京電力原発事故農畜産物損害賠償対策福島県協議会が昨年７月、警戒、計画的避難、緊急時避難準備各区域の農家の損害賠償請求のために作った統一基準で、そうま、ふたばなど被災地の４農協管内を対象に、国や県の統計などを基にまとめた数字でした。そこでコメは、５９３５６円（同４７パーセント）とありました。<br />
　「農協が決めたかもしれないが、俺は農協にコメを出していない。身銭を切って何度も東京に足を運び、客を１人１人開拓し、値段を交渉してきた。中間の手数料払いもなく、できる限り経費を削って。俺だったら、これくらい売ってるよ」と、こたつの上にあった電卓に手を伸ばして、９５０００円という数字をたたきました。それは、土作り、苗作りに始まり、自前の乾燥機を備えての独自の水分調整に至るまで、四半世紀近い努力が生んだ数字。机上で機械的にできた基準にのみ込まれることに、農家の誇りが反発しました。<br />
<br />
　もう１つは、小野田さんのこれからに関わるものです。山梨への移住をもはや現実の選択と考える小野寺さんは、農業機材を含めた活動拠点移転の費用も補償に入れてほしい、と東電側に伝えたところ、はっきり断られたそうです。「補償は、過去についての損失が対象であって、未来についての補償はあり得ず、国の補償方針にないものは出せません」と。<br />
　「あんたたちの原発事故のために俺は苦労しているのに何だ、と言っても、また話がかみ合わない。それがまた、新しいストレスになった。未来のことでなく、起きていることはすべて現実なのに」と小野田さん。ここでは農業を続けることができるのか否か、とどまるべきなのか移住すべきか、自らの心身を害するほどに悩み葛藤し、その思いが決して通じることのない世界と交渉を続けることの濃い疲労が、その顔にありました。<br />
<br />
　「ハウスを見てみるかい」という小野田さんの後について、外に出ました。庭にツクシが伸びています。自宅前のハウスの扉が開くと、いきなり菜の花の黄色が目に飛び込みました。ハウスで栽培しているかのように大きく育っています。「いつもの年なら、１３００箱の苗でいっぱいだったんだ」。仕方がなくジャガイモを植えたといい、小さな緑の芽が一列に連なっていました。その収穫の日を、ハウスのあるじは見ることがあるのでしょうか。<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
<br />
　その日の様子が気になって、ちょうどまた南相馬市に取材があった１２日の午後４時過ぎ、仙台への帰り道、鹿島区北屋形に立ち寄りました。あいにく小野田さんは、収穫したイチゴを地元の青果市場へ出荷に行って留守。イチゴのシーズンは終盤でしたが、幸い１パック４００円ほどの、予想よりはまあまあの値で推移ししたといいます。<br />
　ひろ子さんは「もう、そろそろ帰ってくるころなんだけどね」と言いましたが、どこかに寄って話をしているのかもしれません。「どこに寄っても、放射能の話ばかりで、いやになる、と常々ぼやいているのにねえ」。<br />
　あれからコメの損害賠償請求について、最初の請求時に添付した決算書ではなく、２０１０～１１年度の売り上げを１件１件、伝票などから洗い出して、ありのままの形で請求し直すことにした、といいます。「その時々を振り返ると、よく稼いだものだ、と思う。人の縁、コメの縁がどんどん広がり、つながって」<br />
<br />
　ログハウス風の自宅のベランダに腰を掛けて話を聴いていると、寝そべっていた一家の雄の愛犬「ラン」がひろ子さんに駆け寄り、体をすり寄せて甘えました。ほえるのを私は１度も聞いたことがなく、番犬として大丈夫なのか、と思うほどおっとりとした犬です。「でもね、ハクビシンとか、ハウスの害獣退治にはとても張り切って、よく捕まえるんだよ」<br />
　話は、また小野田さんのことに戻りました。「もう一度、無心に農業に取り組ませてやりたい。今は、農業で生きていこうとしたら、無理だな。原発事故さえ、なかったらなあ。まったく、とんでもないものを造ってくれたと思う。だからね、どこでもいいから、これまでと同じように作れなくてもいいから、無心になれる別の場所に移った方がいい…」<br />
　時計はもう５時を回り、おぼろな乳白色の空に薄い夕日が浮かんでいました。<br />
<br />
<br />
<br />
ジャガイモの芽が出たハウス＝４月７日<br />
<br />
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東京電力から届いた書類を見る小野田さん夫婦＝４月７日]]></description>
<pubDate>Tue, 17 Apr 2012 20:23:37 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
<item>
<title><![CDATA[余震の中で新聞を作る６２～卒業式と５本の桜]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/xtjr7yRS8s5PGUnMopDf</link>
<description><![CDATA[　３月２３日、仙台を朝早く出て、国道６号を南に向かっていました。震災で崩れた道路の復旧工事が今も続く宮城県山元町から相馬市を過ぎ、南相馬市鹿島区に入っていつも通る歩道橋のそばで、白い大きなものが宙に浮いているのが見えました。漁船です。津波で跡形もなくなった浜の漁港から３キロ近く流されてきた漁船５、６隻がそのままずっと国道脇に、記憶のモニュメントのように放置されていました。１年が経っても何も変わらぬ被災地の姿を象徴するもののように。しかし、年度末になってようやく撤去の予算が執行されたのでしょう。<br />
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　この朝見たのは、撤去される最後の１隻。この１年の重さがうそのように、軽々と大型のクレーンに吊るされ、どこかへ運ばれていこうとしていました。風雨にさらされた後の修理は可能なのか、それ以前に漁船の主は健在でいるのか、だとしてもすべてを流された浜で、しかも福島第一原発事故の汚染水の影響で漁獲自粛が続く海で、あの漁船が再生する日はいつ来るのか。そして、風景の表層からは震災の傷が少しずつ消えていく。そんなやり切れぬ思いを抱え込みながら、さらに車を走らせました。　<br />
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　国道脇の店々は既に平常の風景に戻った南相馬市原町区の中心部を過ぎました。国道沿いの店々の様子は震災前となんら変わらない日常が戻ったように見えますが、市民（合併した３区の計約７万人）の３分の１に当たる約２万３０００人が県外を含む市外へ避難したままといわれます。やがて車は、原発から２０キロ圏に接する大甕（おおみか）地区に。原発事故による緊急時避難準備区域の指定解除を受けて昨年１０月１７日、７カ月ぶりに元の校舎で授業を再開した大甕小の卒業式が、この朝９時４５分から開かれるのでした。<br />
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　今年１月１０日、３学期の始業式を取材した時のことを<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/9c1PUeultkIiCvaTbwGm/" target="blank">「余震の中で新聞を作る５６～種まく人・その後　新しき年、そして慰霊」</a>で紹介しましたが、その取材が縁でまた平間勝成校長（６０）から連絡をもらっての再訪。２０１２年度の全校生徒２０４人のうち７５人が１０月に戻った大甕小は、始業式の日の全校生徒が８４人になっていました。何カ所もの道路工事で足止めされ、遅れて到着した体育館では、紅白の幕の内で２０人の卒業生が、在校生に「別れのことば」を送っていました。<br />
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　「思えば、いろんなことがありました」「３月１１日の大震災」「避難した多くの友だち」「（３０キロ圏外の鹿島区に通学しての）八沢小での合同学習」「夢中になって歌ったお別れ会」「本校での授業再開」「戻ってきた友だち」「みんな大切な思い出です」<br />
　そして、歌。「いっしょに笑って　いっしょに泣いたよね」「永遠に覚えていて　ここにいたこと」<br />
　野馬追の里ならではの課外活動である、赤い陣羽織の６人の在校生の法螺貝に送られて、卒業生たちは退場。涙をぬぐいながら語り合っていた３人かのお母さんを呼び止めと、こんな言葉が返りました。<br />
　「ほんとによかった。大変なことがいろいろありすぎて」「うちの子どもは、地元を離れずにずっと八沢小に通っていた」「うちでは福島市に避難して、１１月に自宅に帰ってきた。子どもが、どうしても学校に戻りたい、と言って」「友だちと一緒になれて、ほんとによかった」「こんな日が来るなんて、あのころは想像もできなかったね」<br />
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　校長室に立ち寄りました。「避難先の丸森（宮城県丸森町）の小学校で先週、一足早く卒業式をした６年生の子も、きょう母校に来て２度めの卒業式をしたんだ。証書はあげられなかったけれど、お母さんは涙ぐんでたな」。平間校長も、感無量の様子でした。<br />
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　机の上から持ってきて見せてくれたのは、校長式辞の原稿。「原文は１カ月前に考えたんだが、あれもいいたい、これも入れたい、でも１０分以上しゃべれないし、と結局、けさの出勤の車の中で出来上がったよ」と笑い、間に合わなかった私のために内容を語りました。<br />
　それは、「麦ふみ」という題。「麦は、芽が出ると踏まれて、土をぱらりとかけられる。それを２度繰り返すと、しっかりした麦に育つ。やらないと、雨風にも耐えられなくなる。子どもたちもつらい経験をしたけれど、きっと強く生きていける。そんな話をしたんだ。いまふんばらずに、いつふんばる？―と」<br />
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　平間校長にとっても、これが教師として最後の卒業式。３月いっぱいで定年退職を迎えるのでした。２８日に離任式があり、「終わったら、校庭に５本の桜を植える」といいます。大甕小では津波の犠牲になった児童が５人おり、その命を受け継ぐ木になるだそうです。「１年、２年、３年、４年、そして、きょう卒業するはずの６年生だった」。<br />
　<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/9c1PUeultkIiCvaTbwGm/" target="blank">上記ブログ</a>で２月１１日に催された萱浜地区の合同慰霊祭の話を紹介しましたが、小学校も同じ痛みを分かち合っていました。植えるのは、ヒガンザクラの若木。「寿命が長く、卒業生、在校生たちと一緒に成長してくれる。グラウンドを駆ける子どもたちをも見守ってくれる。同級生が大人になって母校を訪れる時も、『友だちの桜』として思い出してもらえるだろう」<br />
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　この朝、卒業式に出た児童数は９１人。１月の始業式の時点よりも７人増えていました。今学期は、誰かが『帰ってくる』という情報が毎日のように寄せられたそうです。「もう、減ることはない。子どもたちが少しずつ増えていくのは間違いない。４月には１００人を超えるだろう。やむなく異郷の町で１年を過ごし、みんな『ふるさと』を再び思い始めたんだ」。気がつくと、校長室の壁には、私が取材した「始業式うれしいな　友だちが学校に帰ってきたよ」という見出しの<a href="http://www.kahoku.co.jp/pub/kodomo/pdf/120129-01.pdf" target="blank">河北新報「かほピョンこども新聞」</a>が張られていました。<br />
　すると、平間校長は職員から声を掛けられ、急ぎ足で外へ。窓の外に連なる花壇の前には、花束を手にした在校生や保護者たちがずらりと並び、卒業生の見送りが始まろうとしているところでした。花壇は、昨年１０月の授業再開を前に除染と合わせて、地元の人々が大勢のボランティアと共に花苗を植え、そのパンジーやビオラが盛りを迎えていました。<br />
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　大甕小を次に訪ねたのは、３月２８日の午後。離任式は終わっていましたが、平間校長、そして地元の萱浜地区の農業八津尾初夫さん（６２）が待っていました。やはり３月いっぱいで区長で退任する八津尾さんにとっても、亡くなった５人の児童のうち３人が自分の地域の子どもでした。平間校長が、こんな思い出を語ってくれました。<br />
　「６年生の男の子は、昨年６月に計画区域（原発から２０キロ圏）で見つかったんだが２月初めにやっとＤＮＡ鑑定で本人と確かめられたんだ。お父さんが代わりに卒業証書を受け取った。ＰＴＡ新聞の『将来の夢』という作文で、『ぼくは人間国宝になりたい』と書いた面白い子で、人気者だった。３年生の妹さんも一緒に亡くなってね。彼が見つからぬまま辞めるのが心苦しかったが、せめても…」<br />
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　その時、校長室に男女の若い講師が続けてあいさつに訪れ、「失礼します。１年間、どうもお世話になりました」と頭を下げて、去っていきました。<br />
　男性の講師は、秋サケ漁で有名な福島県浪江町の請戸という浜の小学校から大甕小に転任し、４月からは相馬市の磯部小で教えるといいます。請戸は津波で被災し、しかも原発に近い警戒区域となった地域。磯部もまた集落のほぼ全域が津波にのまれました。また女性の講師は、浪江町の出身で、同県飯舘村の小学校から昨年大甕小に移り、やはり飯舘村の３校が隣の川俣町に移転し同居する小学校で４月から教えるといいます。教師の世界でも、さまざまな人生が震災に巻き込まれ、また別の被災地の子どもたちと関わっていくのです。「この１年の経験が、彼らのような若い人のこれからにも生きるだろう」と平間校長。<br />
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　植樹された５本の桜の若木を見ようと３人で校庭に出ようとする時、ちょうど来訪の客がありました。地元の市議会議員、田中京子さん。学校から６号線沿いに南へ２キロほどの江井地区に自宅があり、昨年４月２２日に警戒区域に入れられたため、戻れぬままだといいます。お孫さんも大甕小の在校生で、県外の避難先に両親といるといい、田中さん自身は原町区内の借り上げ仮設住宅の住み、家族が離れて暮らしています。<br />
　「国が、指定解除をもうすぐ決めるという方針が、間もなく市議会にも説明されると聞いています」と言い、「そうなれば、やっと家に戻れる」と田中さん。「帰れる日」を待つ人が、ここにもいました。翌々日の３０日付河北新報には、こんな記事が載りました。<br />
　「南相馬市は２９日、福島第１原発事故に伴う市内の避難区域が４月１６日に避難指示解除準備、居住制限、帰還困難の３区域に再編される見通しを明らかにした。３０日の政府の原始力災害対策本部で決定する。　２９日の市議会全員協議会で説明した。避難指示解除準備区域は、小高区の大半と原町区の一部で現行の避難区域の９７％に当たる。対象世帯は約３８５０で、住民の立ち入りが可能となる」<br />
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　学校の正門に近い校庭西側に、５本の桜は植えられていました。立派な石碑も置かれて、「五本桜　忘れないよ　いつも一緒だよ　２０１１．３．１１　大甕小学校」と刻まれています。この若木と石碑を贈ってくれたのは、ＮＰＯ法人「さくら並木ネットワーク」（東京）。津波で娘さんを亡くし、原発事故も重なり、横須賀に避難している浪江町の人の「被災地に形見の桜を」との思いを支援しようという活動が契機で、大甕小への寄贈が実現したそうです。植樹式には、理事で自然写真家の桜野良充さん（３３）らが参加しました。<br />
　「１年たったら、この桜の下に、みんなで集まったらいい」と、田中さんが提案しました。昨年の卒業式は、地元にとどまった児童が通った鹿島区の八沢小で夏に行われました。「その時、母校でもう一度、卒業式をやってあげよう、と母親たちと約束したの。母校でやらなくては意味がないし、子どもたちがかわいそう。来年の桜が咲くころにどうかしら」<br />
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　それからふと、田中さんが尋ねました。「今、こうやってここにいる自分は楽しい気持ちけれど、借り上げ仮設に帰ると思うと心が暗くなる。そんな１年だった。私のような大人でもそう。校長先生、子どもたちの心の傷はどうですか？」。児童たちが鹿島区の小学校に通っていたころ、にぎやかなおしゃべりの輪に入って声を掛けると、突然、真顔になって『おじいちゃんが亡くなったんだ』と答えた子がいたそうです。<br />
　「同じかもしれないね。朝、仮設から学校に来ると、みんな楽しげだが、下校の時はどこか沈んで見える」と平間さん。「去年の授業再開の日、みんな、いい笑顔をしていた。それは本物だったと思う。でも、１人の３年生は『懐かしい！』と言った。遠い旅をしてきたみたいに。ある日、『生きる』という題で話をしたら、涙を流している６年生の子もいた。あの年齢で、『生きる』という言葉を敏感に受け止め、切実に考えているんだ。しかも、まだ半分以上の子が全国に散らばって。最後の日まで学校にいて精いっぱい勤めるが、その子たちとは、それからも、つながっていたい」<br />
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　まだ細い５本の若木ですが、つぼみがありました。もう春というのに寒風がやまない北の土地に無事根付いて「何輪かでも咲いてくれるといいね」と、３人は見上げていました。<br />
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（国道６号脇で吊り上げられ、撤去される漁船＝３月２３日、南相馬市鹿島区）<br />
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（南相馬市大甕小の卒業式で＝３月２３日）　<br />
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　]]></description>
<pubDate>Sun,  8 Apr 2012 23:36:52 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
<item>
<title><![CDATA[余震の中で新聞を作る６１～ジャズ喫茶、みたびの夢／その２ ]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/CzgHMkQYmuWN2TcJoVyK</link>
<description><![CDATA[　昨年３月１１日の津波で、再度の開店後わずか３カ月足らずで流された陸前高田市のジャズ喫茶「h．イマジン」の主人、冨山勝敏さん（７０）を初めて訪ねたのは同２０日でした。外では仮設住宅の建築が進み、自衛隊の給水車に被災者の列ができていた第一中学校体育館の避難所。「方丈記」の鴨長明の庵を思い起こさせる狭い畳の上で、冨山さんの長い旅のような、あるいは一瞬の夢のような話を聴かせてもらいました<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/QtdoYOXGWFcEfuiK5VTj/" target="blank">（『余震の中で新聞を作る６０』参照</a>）。<br />
　第二の人生の場所と決めて２００３年に開き、０９年に全焼した大船渡市碁石海岸の初代「h．イマジン」のこと、この土地で培った縁の友人らの応援で旧高田町役場庁舎を買い取り、よみがえらせた２代目の店のこと。そして、「あの日、避難して以来、町には行っていないんだ。店の跡も、どうなったか見に行かなきゃと思っていた」と、冨山さんは腰を上げました。<br />
　<br />
　「これはひどい」。冨山さんの第一声でした。１０日ぶりに戻った高田の町は、丘陵部の端にある高田一小の前から道沿いにだんだんと、家々の残骸や家財道具類がうずたかく盛り上がり、背の高さを超え、自衛隊によって切り開かれた中心部の道の両側では３メートルほどの高さになっていました。津波が運んだ海底の細かい砂塵が風に巻き上げられ、山脈のようながれきのはざまを、自宅を探す家族連れが戸惑いながら行き交っていました。<br />
　海に向かって右手の丘陵が、城跡の本丸公園。登り口の道の斜面に古い石垣が見え、それがh.イマジンの目印でした。高さ２メートルほどの石垣の上には、店の間取り図のように土台があらわになり、金具で留められた柱という柱の根っこがすさまじい力で、同じ方向に引きちぎられて残っていました。旧役場庁舎の威厳の象徴だった玄関の２本の柱も、「夏にはビアガーデンをやろう、と言ってたのに」というウッドデッキの支柱も同様に。<br />
　敷地には、隣にある神社の狛犬が横たわり、鳥居も崩れているのが見えました。目を東すと、７万本の松並木で有名だった高田松原は消えて、視界を遮るものもなく海が広がり、まるで原爆野のような風景が足元まで続いていました<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/8UStB9DOlj6VGio4bprH/" target="blank">（『余震の中で新聞を作る６～三陸の被災地へ・２日目／陸前高田』参照</a>）。<br />
　店の名残といえば、丈の高い赤い革張りのいすが１脚、転がっていたのと、１枚の裸のレコードが目に入ったのみ。一目で「Prestige」と分かる黄色いレーベルの盤は、「Quiet Kenny（静かなるケニー）」。トランペッター、ケニー・ドーハムによる１９５０年代の名盤でした。いずれ何かのよすがになろうか、と拾い上げて手渡すと、冨山さんはしばし懐かしむように盤を握った後、ぽいと投げ捨てました。「もう、過去は振り返らない」と言って。<br />
　「津波の廃材などを使って、ここに掘っ立て小屋を建て、やり直しだ。土台は大丈夫そう。『ケセンきらめき大学』の仲間に呼びかけて、またh.イマジンの看板を上げよう」<br />
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　　「中古レコード　寄贈申し込み続々／津波で流出・ジャズ喫茶店主／『激励　夢のよう』」。こんな見出しの記事が河北新報に載ったのは、それからひと月ほど後の４月１８日でした。きっかけは、同月１日の同紙社会面連載「ふんばる」に載った冨山さんの記事でした（『余震の中で新聞を作る６０』に画像）。１８日の続報から一部を引用してみます。<br />
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　『中古レコードを送りたい」という申し出は、冨山さんを紙面や河北新報のホームページやＫＯＬＮＥＴで紹介した本紙のほか、同記事を転載した神奈川新聞、東京新聞にも寄せられた。　神戸市の広告代理店勤務高橋寿美子さん（３８）は兵庫県内のジャズ愛好家のメールマガジンを通して記事を知り、集めた１００枚余りのジャズやポップスのレコードを送ろうと思い立った。<br />
　「ブログで出会った友人が陸前高田におり、店も家も流され避難所にいる。何ができるか悩んだ時、『癒やしの場を再びつくりたい』という冨山さんの話が響いた」。音楽好きな仲間たちにも応援を呼び掛けるという。　東京都内の自営業菅原一晃さん（５８）は東京新聞で記事を読んだ。「つらい状況であるほど、楽しみが日常に必要。店が復活する日のために、ジャズを１００枚ほど役立ててもらえたら」と本紙にメールを寄せた。<br />
　横浜市の小野妙子さん（７２）は、ジャズやタンゴ、日本の懐かしい歌などを織り交ぜ、６０枚余りを送りたいと神奈川新聞に希望を寄せた。「６９歳の冨山さんに、また元気に立ち上がってほしい」とメッセージを語る。　同紙には、読者９人から計５８０枚の送付の希望が寄せられたという。<br />
　陸前高田市の一中の避難所にいる冨山さんは「全国からの励ましは夢のよう。支援に感謝し、いずれ『ｈ．イマジン』の再々出発に使わせていただきたい」と語った。』<br />
　<br />
　こうした寄贈の申し出は、私にもメールで寄せられ、高知市の薬局経営のジャズファンからは「何とか、届けてほしい」と、レコードが２００枚近く入ったと思われる重い段ボール箱も届きました。また、記事を転載していただいた神奈川新聞の整理部長さんからも「当地での反響の大きさに驚いている。こちらでも応援したい」との手紙をもらいました。こうした申し出が届くたびに冨山さんに伝え、携帯に転送し、それだけで１０数件あったと記憶しています。「オーディオのセットを送りたい」という希望、店再建の支援金も冨山さんに寄せられるようになり、「みたびの夢」は具体的に膨らんでいったそうです。<br />
　「自分自身は何にもなくとも、元気になれる。いや、元気になる、というより、人を慈しんでくれる人がこんなにいる、と心が熱くなる。見ず知らずの人たちが『落ち込んで居るんだろうな。くじけないで』とメッセージに書き、行動をしてくれる。その慈しみの心が、どーんと来るんだ」<br />
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　大船渡市大船渡一中前の仮設住宅に移っていた冨山さんを訪ねたのは、８月２日。胸に納まりきらぬほどの感謝の思いを、Ｔシャツ姿の冨山さんは語りました。自室の居間は、レコードが詰まった段ボール箱でますます狭くなっていました。テーブルにあったメッセージの束には「ルイ・アームストロングこそ復興の音楽を信じます」というジャズファンらしい応援の一文があり、それが添えられていたという全集レコードのジャケットから、当のサッチモが深い、静かなまなざしを投げかけます。そこには、私にとっても懐かしい５０～６０年代の名盤の山がありました。<br />
　「ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン」「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」「処女航海」「サードストリーム・ミュージック」「ホレス・シルヴァー」「バグズ・グルーヴ」「デューク・エリントン＆ジョン・コルトレーン」…もう、数えきれません。<br />
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　支援者はそのころまで８５人を数え、スペイン在住の邦人、米国デンバーから「被災地支援物資」と書いて８０枚余りを送ってくれた邦人もいました。この日まで寄せられたレコードは手元に約１０００枚、「店ができるまで待ってもらっている」のが約４０００枚に上っていました。映画音楽、昔の日本歌謡、ムード音楽、クラシックなど、ジャンルもさまざま。<br />
　いわき市、青森市などの有志からもオーディオ・セットや古い蓄音機も届き、「世話になった一中やスポーツセンター、広田小（いずれも陸前高田市）、松崎中（大船渡市）の避難所で計５回、音楽と出前カフェを楽しんでもらう蓄音機コンサートも開いたんだ」と冨山さん。既に、気持ちは動き出していました。<br />
	<br />
　「店作りの話も、いくつかあった」と言います。最初に持ち上がったのが、シェルター型の円形ドームという奇抜な案。米国製の直径２９メートルのドームを２棟つなぐ形で、安い空き地を借りて９月にオープンする、との話が進みましたが、事情あって立ち消えに。もうひとつは、大船渡市立根町にあるブティックのオーナー夫妻から、こう提案されたそうです。<br />
　「店をリニューアルする計画だが、売り場は３分の２に縮小し、残り３分の１をしゃれたコーヒーラウンジのようにしたい。これまで通りに商売をすることに疑問を感じているんだ。津波があって大勢の人が亡くなり、人の命のはかなさ、むなしさを知った。このままじゃ、気が済まない。心を安らげることができる、憩いの場所をつくりたい。お茶を飲んで、おしゃべりをして。それを託せるのは、『h．イマジン』のマスターしかいない」<br />
　オーナー夫妻は、大船渡市碁石海岸にあった初代の店以来の常連で、親しい友人だそうです。家賃なし、光熱費、水道代のみでいいという提案に、「ありがたいお話。できれば３月に店を開けたら」と、冨山さんは心を決めていました。<br />
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　「計５０００枚のレコードを、２面の壁にすべてきれいに並べよう。木のラックを特注して。『ぜひ、作らせて』という地元の若い大工さんもいるんだ。そして、訪ねてくれた人、寄贈してくれた人が、自分の思い出のレコードといつでも再会して聴ける。うまいコーヒーを楽しみながら。そのような、いろんな人が集い、思いを持ち寄って過ごせる店がいい。だから、送ってもらったレコードすべてを、新しい店の音源にさせてもらうんだ」<br />
　東京から来て、津波で被災して、命以外のすべてをなくして、避難所にいる間、「自分は何者なのか？　なぜ、ここにいるのか？」という問いは冨山さんにあっただろう、と想像しました。それを尋ねると、「よそ者なのにね。『あれ、東京に帰ったんじゃないの？』と言われたこともある。しかし、本当のよそ者だったなら、今ごろ東京に帰っていただろう。私は、この土地の人たちからもらったものを、ここで返したい。同じ体験をして、同じ時間を過ごしてきた者として」<br />
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　３度目に冨山さんを訪ねたのは、１２月２８日。大船渡市内での取材の帰り道でした。陸前高田の丘陵部に仮設庁舎を建てた市役所で用事があり、「午後２時に（地元の大手スーパー）『マイヤ』の前で待ち合わせよう」という約束をしていました。<br />
　陸前高田のマイヤは中心部にあった３階建ての大型店ですが、昨年３月１１日に屋上近くまで達した津波で建物は大破し、鉄骨の柱や梁がむき出しになっていました。周囲は、被災直後の町を埋め尽くしていたがれきがすっかり撤去され、途方に暮れるほど何もない、虚無の空間が広がっています。ここに、区画整理事業による復興計画が描かれていました。<br />
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　　『「事業の完了まで体力が続く仲間がどれだけいるか」。陸前高田市商工会長で、高田地区の建設業阿部勝也さん（７０）が、市が進める区画整理の行方に気をもむ。　高田地区は、並行する国道４５号とＪＲ大船渡線の沿線に商店や住宅、公共施設などが集中していた。シンボルの景勝地・高田松原を根こそぎ奪い去った高さ１３～１７メートルの巨大津波で、阿部さんも会社事務所と自宅を同時に失った。<br />
　市は昨年１２月策定の復興計画で、規模が小さい集落の高台移住には防災集団移転促進事業、人口が多い市中心部の再開発には土地区画整理事業事業を適用するシナリオを提示。　今月初め、高田地区と川向かいの今泉地区（計６２１ヘクタール）で区画整理を進める都市計画決定をした。<br />
　土地区画整理事業は、地権者の合意に基づき土地の区画を整え、少しずつ土地を提供してもらい道路、公園などの公共施設を整備する。最も一般的な市街地再開発の手法で、戦災や１９９５年の阪神大震災の復興にも活用された。<br />
　東日本大震災の被災自治体も多くが中心市街地の再開発に導入するとみられる。陸前高田市の場合、海沿いの低地は原則的に居住を認めない公園や産業ゾーンとし、線路の内陸側を５メートルかさ上げするなどした高台に新たな市街地を形成する。<br />
　区画整理はしかし、事業完了までに長い年月を要するのが難点。多種多様で複雑に絡み合う権利関係を、一つ一つ解きほぐすように調整しなければならないからだ。　事実、阪神大震災後に兵庫県内の２０地区で進められた区画整理が最終的に完了したのは昨年３月末。震災発生から実に１６年を要した。<br />
　しかも２０地区を全て合わせても２５５ヘクタールにすぎず、陸前高田市の半分にも満たない。神戸大の塩崎賢明教授（都市計画）は「長期戦に耐えられる住民ばかりとは限らない。元の住民が３分の１しか残らなかった地区もあった」と明かす。』（今年２月２３日の河北新報連載『東北再生　あすへの針路（１２）』から）<br />
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　真冬の日差しの中で動いているものは、整地作業をしているブルドーザーと、撤去されたがれきが一カ所に集積された巨大な山のふもとを行き来するダンプカーの群れ。そんな風景の中でしばらく待っていると、冨山さんから携帯に着信があり、「マイヤって、竹駒町の仮設店舗の方だよ。そっちじゃ、お茶も飲めないじゃないか」。<br />
　竹駒町は、冨山さんが大船渡市碁石海岸の店を失った後に移った借家があった山あいの地区。津波によって計５店が被災したマイヤの新店舗が８月にオープンするなど、プレハブの仮設商店街が生まれていました。落ち合って腰を落ち着けた先は、その一角で９月に営業を再開したという老舗のジャズ喫茶「ジャズタイム　ジョニー」。店内にはライブのポスターが張られ、ジャズが流れ、それだけで外界の光景を忘れさせる空間が生まれていました。常連らしい客たちと語り合っていた店主の照井由起子さんが、注文したコーヒーにクッキー、チョコレートをつけてくださり、それを味わいながら近況を伺いました。<br />
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　「オーナーの計画通り、立根町のブティックに店作りを進めていて、あの日からちょうど１年の来年３月１１日にオープンさせるよ。年明けの１月１９日からペンキ塗りなどの内装工事に入り、２月下旬には内部のセッティングを始める。レコードラックは４段の特注品を１２個並べるんだ」。こう語る冨山さんの目は、若者のように輝いていました。<br />
　被災地支援の活動で縁が生まれた京都のジャズスクールの先生からも「仲間のボランティアを募って、５０００枚のレコード整理を手伝いたい」との申し出をもらったそうです。「ライブをやりたい」という気の早い話も３件舞い込み、「勝手にやっていいよ、と言ってる」。<br />
　「思えば１年前は、２代目の店が開店したころだった。おととしの今ごろは、まだ碁石海岸の店にいたんだなあ」「人間は、最悪でも寝る所と一日の食べ物があれば、生きていける。それができると分かったら、後は元気が出るだけだ。細々とでもお金があれば、生きる楽しみを見つけられる。この年になっても、知ることはたくさんあるんだ」<br />
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　３月６日。大船渡市内の被災地を再訪したのは、ほとんど１年ぶりでした<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/GZAX9ugYUc8KJF7IhyxH/" target="blank">（『余震の中で新聞を作る５～三陸の被災地へ／大船渡』参照</a>）。大船渡港には漁船群が係留され、津波で破壊された周囲の商店街や水産問屋・加工場などの廃墟は姿を消して広大な更地に変わり、１２～１３年度に住民たちの集団移転促進事業が進められる計画と報じられていました。<br />
　そこから市街を貫通する国道４５号を北上し、冨山さんが起居する大船渡一中前の仮設住宅あたりを過ぎるとすぐ、右手に赤い「ＬＯＶＯＡ」の看板が見えてきました。３つ目となる「ｈ．イマジン」が開店する、創業から２０数年のしゃれたブティックです。「お知らせ　３月１１日オープン！！」との張り紙があるドアを開けて、思わず息をのみました。<br />
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　もともとジーンズの売り場だったという米国風の板張りの壁、床をそのまま生かし、多彩な国旗をクロスにした５つのテーブルを配し、三方の壁沿いには自慢のレコードラック、長いすのある厚いカウンター、時を経た風合いのあるピアノ、往年のジャズ喫茶の定番であるＪＢＬの大きなスピーカー、真空管を含め４種セットのアンプとプレーヤー（ＪＢＬ、デノン、パナソニックなど）。壁にはジャズの名盤が綺羅星のように飾られています。「サンデイ・アット・ビレッジバンガード」「モントルー・ジャズフェスティバルのビル・エバンス」「愛と死の幻想」「クール・ストラッキン」「アニタ・シング・ザ・モスト」「エラ・アンド・ルイ」「ジャック・ジョンソン」…。好きな人は見飽きることがないでしょう。<br />
　ピアノにも物語がありました。津波で被災した大船渡小に昨年１１月、愛知県内からグランドピアノの支援品が届き、それまで長年体育館で使われていたピアノを引き取って修理した楽器店の社長から、冨山さんに「もらってくれないか」と声が掛かったそうです。<br />
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　「よくぞ、ここまで。おかげさまで、ここまで。３度目の漂着地というべきかなあ。道のりは長かったようで、短くもあり。自分の予想をはるかに超える店ができた。みんな、たくさんの人の支援のおかげ。もし東京へ帰っていたら、『みたびの夢』もなかった」<br />
　冨山さんは、この日出来上がって届いたという「ｈ．イマジン」の立て看板をなでながら、しみじみと語りました。「再起のために」との支援金も合わせると、応援者は１００人を超えるといい、メッセージの１枚１枚が分厚いファイルに大事につづられています。その中に、横浜市野毛の伝説的なジャズ喫茶「ちぐさ」の復活を伝える記事もありました。<br />
　日本のジャズ・ライブの草分けとして店主・故吉田衛さんが多くの演奏家を育て、２００７年に７３年の歴史を閉じた「ちぐさ」が、ファンや地元の運動で同じ３月１１日に再開店することになっていました。神奈川新聞の転載記事などをきっかけに、冨山さんにも「ちぐさ」を愛する人々からレコードの寄贈があり、不思議なジャズの縁が結ばれたのでした。　<br />
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　店の厨房器具やいす、テーブルなどは、自ら古道具の店を巡って調え、天井のランプの赤いかさは岩手県東和町の和紙工芸の店で仕入れた赤、紫の紙を重ねて作り、テーブルライトは同県紫波町のガラス工芸作家の一点物を買い求めた、といいます。ランプのかさの骨組みの部分まで１個１個手作りしたという話に、訪れる人への思いを感じました。「３月１１日は、慰霊の日でもある。午前１０時、静かに店を開け、心を休めたい人を待ちたい」<br />
　この日、レコードの整理作業をするボランティアがおり、声を懸けると「次男です。開店の手伝いに東京から車で駆けつけました」と言葉が返りました。冨山次郎さん（３５）。２代目の店の開店準備にも訪れ、昨年３月１１日の後は父との連絡が途絶えたそうで、「陸前高田は壊滅」「確認された避難者は２００人」という当時のテレビ報道に、最悪の事態も覚悟したといいます。「連絡が取れたのは３日目。最初の店は火事だったし、その次も地震、津波と、すべてが降りかかった店。３度目があるとは」と、いまだ信じがたい表情でした。<br />
　「震災には遭ったが、ここまで人の縁を父はもらった。東北に来て、とどまったから。この震災で私の人生観も変わったと思う。以前は三陸への道が遠かったが、ようやく通いなれてきた。東京の人間だけれど、この店のある町が、第二の故郷になるかもしれないね」<br />
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　「開店の日、最初にかけた曲は難でしたか？」。それが、冨山さんに質問してみたいことでした。３月２９日、大船渡市内での新たな取材を終えての夕方、立ち寄った「ｈ．イマジン」。お客が引けた時間帯で、ハンチングにセーター姿のマスターは「よく来たね」と、自慢のハワイコナ・ブレンドを入れてくれました。夢の店は、現実になっていました。<br />
　質問への答えは、女性歌手ヘレン・メリルのハスキーな名唱“You&#039;d be so nice to come home to”。「帰ってきてくれたら、とってもうれしい」と訳したらいいでしょうか。冨山さん自身、「どんな曲で始めようか」とじっくり考えていたそうです。「失われたすべてのものが、帰ってくる。誰にとっても、そんな場所に」という願いが込もった選曲でした。初日は６０人、２日目は５０人、以後も２０～３０人の客が来ているそうです。ブルーマウンテン・ブレンド、ロンネフェルト社の紅茶など、オリジナルメニューも復活しました。<br />
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　３月６日に訪ねた折は、艶直しの研磨作業が行われていたピアノの上に花のアレンジメントが飾られていました。壁の一角には「Cavernbeat」という地元大船渡のビートルズ・バンドによる「ｈ．イマジン・ライブ」（４月１日ＰＭ７：３０～）の手作りポスターも。「機材の大半が被害に遭うも『震災に負けない』を合言葉に活動を続ける。ｈ．イマジンのマスターの協力で『復興ライブ』を開催します」と、そこには記されていました。<br />
　そこへ、２人の男性が現れました。冨山さんを応援した「ＬＯＶＯＡ」オーナーの菅原実さん（５８）と、市内で「三浦屋」といううなぎ料理店を営む三浦日出夫さん（６８）。２人とも、初代の店がオープンした０３年以来のファン。「ここは、海から離れた所にあって被災を免れた。だからこそ、これから、人が集える場所をつくってもらいたいんだ」と菅原さんは言います。三浦さんは、２代目の店のオープンに協力し、レコード２００～３００枚を寄贈したそうです。店でかけられたのは、まだ１０枚ほどだったといい、「索引を付けて、貴重盤ばかりだった。俺の青春も津波で流されたものなあ」とぼやきました。<br />
　三浦さんは、創業１００周年を記念して、岩手県野田村にある「野田焼き」の作陶家・泉田之也さんを招いての「話を聴く会」を６月に、h．イマジンで開きたいとの希望を冨山さんに披露しました。「あきらめかけた夢だった。それを、みんなが持ち寄ればいいんだ」<br />
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　帰り際にながめた店は、赤いランプの温かな光が夜に漏れ、帰ってきた小さな希望の燈火にも見えました。<br />
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カウンターで語り合う冨山さん、菅原さん、三浦さん（右から）<br />
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３月８日の河北新報朝刊より<br />
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　冨山さんの店「ｈ．イマジン」のウェブサイトは、<a href="http://love.ap.teacup.com/himagine/" target="blank">http://love.ap.teacup.com/himagine/</a>。<br />
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<strong>（<a href="http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32195" target="blank">ＣａｆｅＶｉｔａ／寺島英弥）　この記事は、講談社のウェブマガジン「現代ビジネス」にも転載されています</a>。</strong> ]]></description>
<pubDate>Sun,  1 Apr 2012 06:25:43 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
<item>
<title><![CDATA[余震の中で新聞を作る６０～ジャズ喫茶、みたびの夢／その１]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/QtdoYOXGWFcEfuiK5VTj</link>
<description><![CDATA[　３月１１日を、再出発の地でどう迎えたのだろうか、と冨山勝敏さん（７０）に電話を掛けました。お忙しいのか、２度、３度、つながりません。お声を聞くことができたのは、１５日。<br />
　どうでしたか、と尋ねると、「１１日は地元の慰霊祭など、いろんな場所で、いろんな思いで、みんな過ごしたのだろうけれど、店には６０人もお客があったよ。神奈川など遠来の人も２、３人いた。１２日も５０人。１３日が３０人と、少し落ち着いてきたかな。ありがたかった」。<br />
　電話の相手は、大船渡市立根町の国道４５号沿いにできたジャズ喫茶「ｈ．イマジン」の店主。１年前の大津波で、隣の陸前高田市にあった店が流されてなくなり、その再起の店が開いたのでした。<br />
　もう1つ、冨山さんに聞いてみたいことがありました。「開店の日の最初に掛けた曲は何でしたか？」<br />
　その答えはこうでした。「それは、どうしようかと、ずっと考えていたんだ。掛けたのは、ヘレン・メリルの”You&#039;d be so nice to come home to”（ジャズ・ボーカルの名曲）。そう、『帰ってきてくれたら、うれしいわ』。お客さんもそうだが、被災した町々も、そこの人たちも、希望も夢も、帰ってきてくれたら、と願いを込めてね」<br />
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　冨山さんとの出会いは初めて三陸の被災地を取材した昨年３月２０日。地元の大船渡支局の記者から「つきあいのある、東京からＩターンしたジャズ喫茶店主が今、避難所にいる。訪ねてみてほしい」と紹介されたのがきっかけでした。以下は、同４月１日の河北新報連載『ふんばる』にまとめた文章の一節です。<br />
　　『大津波で街が壊滅した陸前高田市。約１２００人が第一中学校で避難生活を送る。マットが敷き詰められた体育館に冨山勝敏さん（６９）はいた。<br />
　「東京五輪のころ、古里の郡山市の高校を出て、東京でフーテン生活を送った。そこに戻って出直すようなもの」<br />
　陸前高田市のジャズ喫茶「ｈ．イマジン」の店主。ジャズの名盤と本格コーヒーを楽しむ大勢のファンに親しまれた。店名はジョン・レノンの愛と平和の歌と「暇人」を掛けた。自らの人生観の表現だという。<br />
　「まさか、まさかと言っている間に、その店を２度も失うのだからね」<br />
　大船渡市の碁石海岸で２００３年に開いた最初の店が昨年２月、火事で全焼した。陸前高田市に移り、再出発したのは昨年１２月。３カ月もたたないうちに、今度は大津波が襲った。<br />
　東京の大手ホテルの会計システム責任者やベンチャー企業の役員などを経て、歩み始めた第二の人生。陸前高田の店は、築６０年という旧高田町役場庁舎を手塩に掛けて改装した「夢の店」だった。<br />
<br />
　「マスターなら価値を分かってくれますね」。友人のメールが、旧庁舎との縁を結んだ。火災後、陸前高田市内で借住まいして間もないころ。<br />
　早速足を運んだ。技巧で名高い地元の気仙大工（陸前高田、大船渡などの地域を気仙地方という）が手掛けた２階建て庁舎。ぼろぼろだったが、はりや柱は堅固だった。洋館の趣があった。<br />
　市の撤去方針に対し、保存運動が起きていた。市に掛け合うと、払い下げ額は２００万円。<br />
　「一目ぼれだった。東京で第二の人生のすみかを探した時、ここ気仙地方の海岸の風光に心ひかれたように」<br />
　あの３月１１日、逃げた高台から、引き潮に没する店を見た』<br />
<br />
　冨山さんにとって２つ目の店となった陸前高田の「ｈ．イマジン」を、私は見たことがありません。しかし、当時の地域紙に載った「よみがえった旧庁舎　昭和ロマンの洋風館に」という見出しの通りの建物が、<a href="http://love.ap.teacup.com/applet/himagine/archive" target="blank">店のウェブサイト（http://love.ap.teacup.com/applet/himagine/archive?b=75）</a>にありました。本丸公園（高田城跡）に連なる高台に立つ、約５００平方メートル、総２階建ての大きな洋風建築。玄関や柱、内外装を緑、ピンク、赤で大胆に染め、淡い飴色に光るカウンターと白い食器類、ゆったりとしたソファー、コンサートも開けるホールもあり、外に張り出したウッドデッキからは古い町並みと有名な高田松原をも遠望できました。<br />
<br />
　訪ねた日の昼時。避難所に出入りする人々の喧騒から1人だけ離れたように、冨山さんは畳の上で静かに語りました。すべてを失った人とは思えぬように、穏やかな笑顔も浮かべて。<br />
　「友人からメールをもらったのは２０１０年３月。その翌日、現地を見てすぐ、『買う』と言ったんだ。１９５０年に建てられ、３０年間、旧高田町役場として使われた後はずっと空き家。床は抜けて穴が開き、天井の漆喰もぼろぼろで、すさまじかった。でも、不思議なことだが、その時、建物がささやいたんだ。『壊すな、お前にならできる』と。店のイメージが、全部できてしまった」<br />
<br />
　冨山さんによれば、取り壊しには１５００万円を要し、市がようやく議会の承認をもらったところでした。以前から『気仙大工の遺産』として保存運動があって、「壊さず、残したい」という人たちが買い手を３年も探していた経緯があり、「４月まで買い手がつかなければ解体」の運命に。「あのマスターなら・・」という最後の望みの綱だったそうです。<br />
　「その時、最初の店の火災保険金が入っていて、そっくり改築費に当てればいい、大丈夫、と思った。市の管財担当者にすぐ連絡した」<br />
<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
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　　市と本契約を交わしたのは同年７月１日。旧庁舎１つが２００万円という払い下げの額は、市とすれば、１５００万円の解体費用に比べたら、ありがたいばかりだったことでしょう。８月から足場を組み、セメント瓦を下ろし、解体部分から工事を始めました。「穴は全部で６０ほどもあった」といいます。冨山さんがデザインに描いた内外装の店が完成したのは１２月１０日ごろ。後は家具・調度類をセットし、オープンしたのは同２２日。大船渡市碁石海岸の最初の店が焼けてから、「十月十日を狙って決めた。その日から、新しく生きるんだ、という気持ちで」。<br />
<br />
　店のデザインもまた、ログハウス風だったという碁石海岸の店と全く違ったものでした。「最初の店も、一目ぼれだった。風光明媚で静かなところがいい、と伊豆箱根を扱っている業者のホームページを見ていたら、東北では１軒だけあった。１０年間空き家だったというが、すぐ行ってみると、中身は大丈夫。それより、あんな美しい海の風景を見たことがなかった。新幹線で直行できず、ローカル線に乗り継ぐ三陸のロケーションもいい。私の人生で、やっとたどり着けた場所、と思ったんだ」<br />
<br />
　前掲の記事に「フーテン生活」とありました。郡山市の商業高校を卒業して東京に出、小さな会社で働いた後、無職に。ちょうどそのころ、時代は東京オリンピックを迎えて、インターナショナル級のホテルが続々と建ち始めました。「東京プリンスホテルが、簿記ができる人間を募集したんだ。自分には資格があり、行くと『あしから来い』と言われた。その下で働くことになったマネージャーに、『お金がないので、給料の前借をしたい』と頼むと、ポケットから１万円をくれた」。まるで映画のストーリーような、高度経済成長期の出来事でした。<br />
　外国人客が泊まりに来るというので、業務で英語を勉強し、フロントもレストランの担当も経験したそうです。ホテルにはジャズのバンドも入りました。<br />
　「ジャズに触れたのは、東京に出てから。兄が『ウェストサイド・ストーリー』の音楽を聴かせてくれて新鮮さにびっくりしたり、オスカー・ピーターソン（ピアニスト）のレコードを持ってきてくれたり。兄の友人も引越しの折に段ボール１つ分のレコードをくれたりして、自分でも集め始めた」<br />
　ホテルの会計システム責任者を務めて退職した後は、第二の職場で役員として、ホテル業界向けに、マネージメントと、コンピューターや通信系などトータルシステムのコンサルタントなどの仕事を重ねたそうです。「仕事は忙しかった。ホテルでいろんなことを経験したが、いずれ辞めたら何をしようか？と自問した時、自分にできるのは喫茶店くらいか？と思った。集めたジャズのレコードも、そのころ７００枚くらいあったし」<br />
<br />
　第二の仕事も辞め、家族と離れて単身、レコードと一緒に東京から引っ越したのは２００３年７月１日。「半年間は開店費用がなく、自分でできることは何でもやった。大工仕事も。テーブル、いすもぼろだったので、きれいな板を張って、脚にやすりを掛けて、原色のペンキを塗った」<br />
　同１２月２１日、７００枚のレコードとミニコンポで初代「h.イマジン」を開店。やがて、オーディオマニアの客が「ここで鳴らして、いい音を出してほしい」とサンスイのアンプ、スピーカーを運び込み、別の客もダイアトーンのミニスピーカーを持ってきてくれたそうです。<br />
　「客は１日平均６、７人。最初は、よほどの物好きしか来ない店だった」と言いますが、なかなか東北にはいないタイプの冨山さんのファンが増え、「６０～７０代の女性が客の９割になった」。<br />
　<br />
　「ただ、変わったよそ者が来た、ということは話題になったようで、ミニコミ紙の取材を受けたり、『どんなやつか？』と興味を持って見に来る人もいた」。その中に、大船渡市の西ロータリークラブの会員がおり、２、３度通ってくれた後、「よそから来て、この町はどう見えるか、何でもいいからしゃべってほしい」と講演依頼をしてくれたそうです。それがきっかけとなって、地元の会社や団体のトップらに知己が増え、観光物産協会から講師の声が掛かったりするようになった、といいます。そうして広がった仲間と「<a href="http://www.tohkaishimpo.com/kirameki/" target="blank">ケセンきらめき大学</a>」という学びと議論、提案の場もつくり、観光、食材、資源開発などの「学部」を設けて、冨山さんもメンバーとして豊かな企業経験を生かし忙しく活動しました。ところが、２０１０年２月１１日の深夜、店は突然の火事で灰となります。<br />
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　３年分のストーブの薪を積んでいた所から火が出たといい、原因は不明のまま。冨山さんは煙と熱風でのどなどを痛め、「あと一秒逃げるのが遅れたら、死んでいた」と医師から言われたそうです。しかし、その入院中、それまで店の内外で縁を培った地元の人たちが相次ぎ見舞いと応援に訪れ、その１人である陸前高田市の自動車学校経営者の友人は「郊外の竹駒町に農家の空き家が１軒あるのだが、しばらく、そこに住んではどうか」と提案。失意を癒やし、再起する種をもらい、陸前高田での再出発につながりました。<br />
　２代目「ｈ．イマジン」が開店した同年１２月２２日は、土砂降りの雨でした。が、応援してくれた大船渡の友人らが駆けつけ、衛星放送のジャズながら、コーヒーと紅茶を楽しみました。<br />
　「ドイツのロンネフェルトの紅茶５種、ミツモトにブレンドしてもらったブルーマウンテン、キーコーヒーのトラジャ。それに、パスタ、ピラフ、ケーキ。そんなメニュー。大船渡時代の常連客、陸前高田の観光関係者も開店を喜んでくれた」。オープン前には、完成記念としてバロックコンサートも企画し、店は地元の人々に新しい楽しみと集いの場を生み出しました。<br />
　<br />
　そして、昨年３月１１日の午後２時４６分ごろ。店を訪れた５人グループの客にコーヒーなど注文の品を出し、「みなさんがカップに口をつけたな、と見ていたころ、あの地震が来た。揺れは大きく、シュガーポットが落ちてカップが割れた。でも、建物は大丈夫で、見に行った自分の部屋で棚が落ちたくらい。新しいテレビも無事だった。ほっとして、片付けを始めようとしたところだった」<br />
　店のすぐ裏の本丸公園が地区の避難所になっており、店を訪れた市の広報の職員と２人で見に行った時、津波警報が広報無線から流れたといいます。「津波が３メートルか、５倍の１５メートルか分からなかったが、店は高台にあり、市役所の最上階よりも高いくらい。周囲の住民が本丸公園に逃げてきたら、うちを避難所にして受け入れよう、と考えていた。そうして、松林の間から海を眺めていたら、海岸の高田松原を超えて、海の水がどんどんあふれてきたんだ」<br />
　「ばりばりという音を立て、土ぼこりを巻き上げて、津波は家々を壊し、ＪＲ陸前高田駅から眼下の商店街をのみ込み、すべてを破壊しがれきに変えて押し寄せた」と冨山さん。<br />
　「それまでは自分の店は大丈夫と思っていたが、津波は２０メートルくらいの高さになって、高台をかなり上の方まで駆け上がり、それから引き波となって隣の神社の社務所をさらい、無事に見えた店をも根こそぎ持っていった」<br />
　「悔しい気持ちも起こらない。頭が真空状態になった。自分の店が消えた。不思議な運命だと、人ごとのような意識だった」<br />
　やむなく、店の高台から続く山の道をたどって歩き、第一中学校にたどり着いたそうです。気がつくと、着の身着のままの体１つに携帯電話のみ。借家のある郊外の竹駒地区は海岸から３キロも離れていましたが、気仙川をさかのぼった津波で約１８０戸の集落も粉々にされていた、と後に分かりました。　　　　　　　　　　<br />
　「店は、そのままの姿で流されていった。まるで、ノアの箱舟みたいに。ただ、ぼうっと見ていた」<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（その２に続く）<br />
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昨年４月１日の河北新報連載「ふんばる」<br />
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冨山さんが被災後を過ごした陸前高田市一中体育館の避難所＝昨年３月２０日<br />
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<strong>（<a href="http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32133" target="blank">ＣａｆｅＶｉｔａ／寺島英弥）　この記事は、講談社のウェブマガジン「現代ビジネス」にも転載されています</a>。</strong>]]></description>
<pubDate>Tue, 20 Mar 2012 23:09:59 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
<item>
<title><![CDATA[「余震の中で新聞を作る」が、本になりました。]]></title>
<link>http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/8Rs4FoYXxL12EqjC0mNv</link>
<description><![CDATA[　このブログをお読みいただいて、ありがとうございます。<br />
　昨年３月１４日から書いていますブログ「余震の中で新聞を作る」が、このほど本になりました。タイトルは「悲から生をつむぐ」（講談社）。これは津波でわが子を亡くした親たちの集い<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/j36APM2TDeGWfZUKJyrk/" target="blank">「つむぎの会」を紹介したブログの一編（４９回）</a>から取りました。被災地を歩いて出会った人たちに感じた思いでもありました。表紙のヒマワリ畑は、昨年８月、やはり津波と放射能渦から立ち上がろうとする南相馬の農家・八津尾初夫さんが有志を募って創りだした風景で、私が撮った写真でした（<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/dCTkXZUv3EqxByz7OLci/" target="blank">３７回『種まく人／夏の日差す</a>』）。<br />
<br />
　ブログは、被災地の新聞の現場の記録を、と日記のように始めたものでしたが、新聞記事の短い枠では伝えきれない風景や状況、声を可能な限りくまなく伝え、製紙工場の被災による紙不足の事態をも超え、発行エリアをも超えて届け、人と人をつなげられるメディアの可能性を震災の渦中で試そう、と続けてきました。連載で伝えた被災者の現状や訴えを、さらにブログで詳細に紹介し、さらに遠く「風評と風化の壁」をも突き抜けて届けたい、という願いを常に込めています。それが実際の支援につながった例もあります。<br />
　「紙とネットは、新聞の双発エンジン」という言葉を米国の地方紙で聞いたのは１９９３年のことでしたが、今、やっと現実になったと感じています。同じ場所、時間を共にし新旧あらゆるメディアを通して、いかに当事者の声の発信を手助けでき、役立てるか、が地元の新聞の役割になった、とも言えます。<br />
<br />
　出版は、やはり昨年３月下旬から、ウェブマガジン「現代ビジネス」にブログが転載されたことがそもそものきっかけでしたが、声を掛けてくださったのが講談社ジャーナルラボの戸塚隆さん。２００９年、私が参加した「<a href="http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/qpIaX2mxrytNfHMlTK1J/" target="blank">スイッチオン・プロジェクト」（本ブログ『若者が取材した「若者の居場所」ｉｎ仙台』参照）</a>」で出会った仲間です。<br />
　さまざまなメディアにかかわる人たちと大学生らが垣根を払い、「誰もがジャーナリストになれる」時代の新しい表現とメディアの形を模索しようと、藤代裕之さん（現・日本ジャーナリスト教育センター代表運営委員）が呼び掛け人となって生まれた場でした。そこで、 磯野彰彦さん（元毎日新聞）、難波美帆さん（早大大学院准教授）、美浦克教さん（通信社勤務）、坪田知己さん（元日経新聞）、野田幾子さん（ライター／エディター、RELATION relayTalk Project主宰）、）、河井孝仁さん（東海大教授）ら多くの仲間や若者たちと出会い、戸塚さんともそこで知り合い、その縁がこのたびのコラボにつながりました。<br />
<br />
　１９日の河北新報・読書のページに、作家・ジャーナリストの佐々木俊尚さんが書評を書いてくださいました。佐々木さんは昨年４月に気仙沼などの被災地を歩き、仙台に寄られた折に初めてお目にかかり、震災報道をめぐる当事者と記者の関係などについて語り合いました。佐々木さんはその時の取材行を、やはり現代ビジネスにつづられました（<a href="http://gendai.ismedia.jp/articles/-/3423" target="blank">http://gendai.ismedia.jp/articles/-/3423</a>）。<br />
　書評を少しだけ引用させていただきます。「終章に、助けを求める女性をヘリから撮影した写真記者のエピソードがある。数百メートル隔てた二人の視線は交わる。しかしどうすることもできない。記者は帰投後「迷いと後ろめたさは消えない」と記した。報道する自分は、しょせんは傍観者でしかない。だが半年後、記者は女性の無事を知って気仙沼を訪ねる。「惨禍の地上から数百メートルを隔てて、一瞬交わった２つの視線、２つの人生がつながりました」。取材者と取材対象者の人生がつながり、そこで記者という第三者的傍観者は当事者へと一歩踏み込んでいく」。これが、被災地に生きる記者の本質なのだろうと思います。<br />
　<br />
　被災地は先日、2度めの３月１１日を迎えました。１３兆円近い復興予算が成立し、復興庁が被災３県に出先を構えましたが、暮らしの状況は「復興」からいまだ遠く、誰もが小さな希望を手探りしているところです。私の郷里の相馬でも、セシウム渦ゆえに漁業再開の見通しも立っていません。私ができ得ることであるこのブログは、２度目の３月１１日からの新たな１年もまた、東北の町や浜、仮設住宅で出会う方たち一人一人の「悲から生をつむぐ」日々を伝え、これを読まれる人につないでいきたい、と思っています。本は、その途中経過の記録です。<br />
<br />
]]></description>
<pubDate>Tue, 20 Mar 2012 12:30:20 +0900</pubDate>
<author>編集委員・寺島英弥</author>
</item>
</channel>
</rss>

