Cafe Vita
新聞は人のつながりを創るCafe。暮らし、文化、社会、メディア…。日々のニュースと私たちをつなぐものを探し、語りましょう。
余震の中で新聞を作る54〜石巻・三陸再訪/1枚の写真
津波で子どもを亡くした親が集う「つむぎの会」の取材以来、ひと月ぶりの気仙沼でした(49回『悲から生をつむぐ』参照)。「震災の取材で私が出会った人が、どんな新年を迎えているか、訪ねたい」という同僚の写真部・門田勲記者に同行して、1月5日、今回は仙台から2時間半の冬道を。車の外に少し出るだけで体が冷え切るほどの北風と雪に、気仙沼の町は薄白く霞んでいました。
3月11日の大津波でほとんどの建物が流され、荒れ野のような風景に無人の低層ビルがぽつりぽつりと立つ魚市場前、前日に近海マグロ船が正月明けの初水揚げをした漁港、仮設の店が集まって生まれた「復興屋台村 気仙沼横丁」を回って、車は鹿折(ししおり)川沿いに開けた街、鹿折(ししおり)地区に入りました。
『津波は、海岸から1.5キロ離れた国道45号まで押し寄せた。その後、火災が起きた。火は、JR大船渡線の鹿折唐桑駅前一帯を包んだ。今も焦げ臭さが覆う。住民の男性(75)は火災を目撃した。押し流された建物が集まり、3階ほどの高さに盛り上がった場所に火が移り、一気に燃え上がったという。「小さな火が連なり、天を焦がすほどになった。ボンベが夜通し爆発し、避難住民はなすすべもなかった」』(3月23日付河北新報)
鹿折地区を一直線に通る県道の両側は、被災した建物のほとんどが取り壊され、がれきも撤去され、むき出しの土色が広がっていました。JR気仙沼駅以北の運行が止まった大船渡線・鹿折唐桑駅の付近では、巨大な黒いサンマ漁船が視界いっぱいに現れ、あの日のままに道路脇に鎮座しています。通り過ぎる車がまるでおもちゃのようです。港から最短でも600〜700メートルの距離を流されてきたのです。おそらく、数え切れない家々を押し潰しながら。
やがて道が国道45号気仙沼バイパスと交差するあたり、西八幡町の津波の被災を免れた高台に車は入りました。あるオフィスビルの1階に間借りしたらしい、「すがとよ酒店・鹿折バイパス店」の前で、長道中のハンドルを握った門田記者は車を止めました。
◇
大きなヨシのすだれに「営 業 中」の手書き文字。赤い南天を彩りにした、背丈ほどの松飾り。「難を転ずる」という願が込められています。そして、気仙沼地方の早春の花、ツバキの模様のあでやかな暖簾。1月2日に行ったという初売りの雰囲気がそのままの店には、女性の店主らしい温もりがありました。
「初売りをやろうかどうか、迷ったんです。今年をどうしよう、という思いもあって。でも、やったほうがいい、前に進もう、と決めて、問屋さんに相談し、福袋も作った」と、菅原文子さん(62)は笑顔を浮かべました。「おめでとう、と言っていいものかどうか」と、お客も戸惑いの表情だったといいますが、2日だけで50人以上も来店したそうです。
店の棚には、「負げねえぞ気仙沼」という緑の瓶の酒が並んでいました。津波を免れた町の2つの酒蔵「両国」「男山」とタイアップして甘口、辛口をそろえ、菅原さんの筆による「気持ちラベル」を貼って売り出した地酒です。「美しい港町 気仙沼は かならず復興します」と、白いラベルには書き添えられています。復興祈願酒として売れているそうです。
「初めまして。突然のお手紙 お許し下さい、私は気仙沼市に住んでおります菅原文子と申します」。9月半ば、門田記者が職場で受け取った手紙が、「ある一瞬」に始まった不思議な縁の糸をつなぎました。「モンちゃん」と呼ぶ二十数年来の相棒で、連載「ふんばる」など震災取材の現場もよく一緒に歩いてきましたが、話を知ったのは、つい最近でした。
このブログへの転載を、お2人から許してもらった手紙には、こう続いていました。
「門田様が取材をしてくださった写真、物干し台で赤いタオルを掲げ、助けを求めていたのは私です。私が載っていた事は、息子はもちろん私も知りませんでした。驚きの中で我が身の姿と対面した時、門田様の記事を読んだ時、涙が止まりませんでした。助けを求めていた私もどうしようもなく悲しみの中で必死だった。あのヘリの人は、私をどんな風に見ているのだろう。見つけているだろうか……」
この写真とは、昨年8月に出された「東日本大震災 全記録」(河北新報社刊)に収録された1枚のことでした。この中で門田記者は「ヘリからの取材」と題し、3月12日の朝早く福島空港を飛び立ったヘリコプターから約3時間、被災後間もない宮城、岩手沿岸の町々の状況を空撮した体験を書きました。そこに載った1枚には『3月12日午前8時38分ごろ』のデータとともに、次のような説明の文章が添えられていました。
『自宅の物干し台で赤いタオルを掲げた年配の女性が、すがるように手を振り助けを求めていた。後日、女性は無事救出されたことを同僚記者から聞いた。ほっとした半面、迷いと後ろめたさは消えない』
◇
写っているのは、家の一番上の屋根に近いベランダで、ビールケースを踏み台にして立ち、首に白いものを巻いて、右手を振る女性。目印のためでしょうか、物干し竿に付けられた赤っぽいタオル、あるいは毛布が風に強くなびいています。背景は、津波が残した満々たる水。ばらばらになった家々の柱や板や屋根、家具などがぎっしりと浮いています。
写真のさらなる生々しさは、おそらくは200メートル以上の上空から超望遠レンズを向けた撮影者と、撮られた女性の視線が真っ直ぐに交わり、状況から離れて写真を見る第三者にまで視線が飛び込んでくることです。地上で私たち記者が重ねてきた当事者との出会いとは別の―互いに誰とも分からないながらも―極限での一瞬の邂逅であったに違いありません。
「どんなふうに、あのヘリから私を見ているのかな?と思った。そして、ここに生きていると知ってほしい、と思った」「でも、いくら叫んでも、ロープが下りてくるはずはない。不時着して助けてくれるはずがない。無理だよね。そうも思った。そう思いながら、必死に手を振っていた」
菅原さんは店で、あらためて写真をながめながら、そう語りました。
その時、立っていた場所は3階に当たる屋上で、家に避難していた近所の70代の女性が一緒にいたそうです。「階段を下りた2階の居間には、おじいちゃん(夫の父豊太郎さん・91歳)、おばあちゃん(母のり子さん・89歳)が、津波でめちゃめちゃに倒れた家具や冷蔵庫の陰で冷たくなっていました」
豊太郎さんは、最近はあまり歩けなくなっており、のり子さんがいつもそばに寄り添っていた、といいます。「2人は仲が良くて、居間で和んでいるのが好きだった」と、菅原さん。
津波が押し寄せた時は、「台所の時計の針が午後3時40分ごろを指していたのを記憶している」。居間に4人でいると、どこからかチャプンチャプンと水の音がして、窓から外を見ると、黒い水が地をはうように迫ってきたそうです。その時、「すがとよ酒店」の店主である夫・豊和さん(62)が外の軽ワゴン車から手提げ金庫を持ってきて家に入った―。菅原さんはそこまでを窓から見ました。でも、なかなか上がってきません。
心配になり、「津波が来たよ」と叫んで、2階にある居間の玄関から階段を下りていった時、店と棟続きの倉庫から豊和さんが現れました。みるみるうちに津波の水が浸入して夫の腰まで水位を上げ、「私が手を伸ばしたら、お父さんは振り向いてこの手を取った。確かに手を取ったのに、突然、別の方向から来た水の勢いに“ぱん”とくるまれ、のまれた。愛用の野球帽が宙に飛んだ。その瞬間を、私は見ていた」。
夫の姿は、木造の倉庫とともに消え、水かさは急激に増して2階の天井まで上った、といいます。わずか10秒ほどの間の出来事でした。
◇
地震が起きた後、市役所の広報無線が「大津波警報」を告げていたそうです。「避難する時間はなかったのですか」と、私は尋ねてみました。店にいた菅原さん夫婦はすぐ2階に上がって、昼寝をしていたという豊太郎さん、のり子さんの無事を確かめました。豊和さんはまた階下に戻って店のシャッターを閉め、倉庫へ行ったのだそうです。ちょうど金曜で、生ビールの19リットル樽など、在庫の品がいっぱいになった日でした。
近隣は「かもめ通り商店街」(浜商栄会)の名で知られました。「“シャッター通り”になることなく、みんな活発で、頑張っていた商店街だった」と、菅原さんは言います。8月には恒例の「かもめまつり」を催し、すがとよ酒店の前がちょうどメーン会場でした。
『壮大な姿を披露する「はしご昇り虎」と来場者が参加できる「200m大綱引き」が、毎年観客を魅了するお祭りです。「はしご昇り虎」は60名の太鼓競演の中、笛のはやしに合わせて特設12mのはしごの先端で勇壮なアクロバティックな舞を披露します。「200m大綱引き」は、200mの大綱に1000名の観客が参加して大漁、豊作をかけ綱を引き合います。(中略)5000人以上の来訪者のある気仙沼でも有名なイベントになっています』(気仙沼商工会議所の商店街イベントカレンダーより)
「商店街では、店に残ったり戻ったりして亡くなった人が多かった。夫も、倉庫の品はもうどうしようもなかったのだけれど、やはり店を離れがたかったのかもしれない」と菅原さん。そんな愛着深い商店街が、「津波で川のようになった。大きなマグロ漁船が流されてきて通り過ぎ、隣のレストランがその後を付いていくように流されて、うちの店の前面を壊していった」
一緒に店を切り盛りしていた息子の豊樹さん(38)、英樹さん(36)は、豊和さんから「自分たちのの車を避難させろ」と言われ、それぞれ子どもたちや、奥さんの両親の無事を確認に行き、その後、津波のため店に戻れなくなりました。鹿折地区の多くの住民が避難した丘陵で不安と寒さの夜を明かした後、翌12日、ベランダから手を振る母親の姿を見つけて、がれきと泥水の中を迎えにいったそうです。
店は全壊し、夫は行方不明のまま。得意客も被災者となり、所持金は親子合わせて9千円、借入金もありました。無我夢中の3月が過ぎ、「どうやって生きていこう」と悩んだ時、街の人から「すがとよさん、また、お酒が欲しいんだが」との声が掛かりました。
長年の付き合いの卸問屋に相談したら、「心配しないで。今まで通り、伝票で仕入れて」と言われ、再開の場所も、自宅の建築を手掛けた業者が高台の太田1丁目に13坪の土地とプレハブを手配してくれたそうです。店のがれきの中から約400本の酒を家族で掘り出し、4月23日、テントの下で売ることから始まりました。豊和さんがシャッターを閉めてくれたおかげで、お酒類を流失させずに済み、息子たちは「父が再起の種をくれた」と胸を熱くして語り合いました。
◇
菅原さんは6月、行方不明のままの豊和さんら3人の葬儀を行いました。8月、太田の店を息子たちに任せて自分が店主となる2番目の仮設の店・鹿折バイパス店を開きました。「遺骨の代わりに野球帽を入れました。夫が見つかったら思い切り泣こう。前を向こう、と思った」。そんなころ、「あの日の自分」の写真に出合いました。「これ、かあちゃんだろ?」と、英樹さんが本を買ってきたそうです。
『手を差し伸べたいが、何もできなかった。無力感と罪悪感が交錯する』『「何やってんのかな」「誰のために撮影しているのだろう」。心が折れそうになった。使命感? 伝える? 記録に残す? 言い訳はたくさん用意できたが、どれもうそに思えた』『空撮するヘリのエンジン音は、屋根の上やがれきの上で助けを待つ人の希望を踏みにじっていたのかもしれない』。それでも写真を撮り続けた、今も説明は付かない、と門田記者の手記にあるのを、菅原さんは読みました。
「この店で次男から見せられ、衝撃的でした。泣けて、涙が止まらなくなった。固まっていた気持ちが解けるように。撮る側の人も苦しんでいたことが分かった」。菅原さんはこう話しました。「気が狂いそうだったのに、『生』に向かって手を振っている自分がいた。生きたいんだ、生きようとしていたんだ。そういうものに衝き動かされていたんだ。夫と共に1度死んだ私が、新しく生まれ変わり、生き抜くんだ、という原点の写真になりました」
大船渡、陸前高田まで飛んだ門田記者の約3時間の空撮の後、3月12日付河北新報には、想像を絶した沿岸の被災状況の写真特集が組まれました。およそ1000回シャッターを切ったという写真の1コマ1コマが、限られた紙面で当然ながら、すべて世に出るチャンスはありません。それこそ、すさまじい惨事の映像は他にもあったかもしれません。なぜ、撮影者自身の手記に、菅原さんの写真を選んだのか。私はあえて、その場で尋ねてみました。
「自分が目にした限り、たった1人で手を振っていた人は他にいなかった。女性がとても必死に。赤っぽいタオルの色とともに、目に焼きついて離れなかった」「たまたま気仙沼の事情に詳しい記者から『この人を知っている。無事ですよ』と聞いて、よかったと安堵した。それでも、何にもしてあげられなかった、申し訳なかった、という気持ちはずっと消えなかった」。手記につづられた言葉の数々も、写真の菅原さんに送られていました。そして、菅原さんから手紙が届いた後の10月、気仙沼取材の機会に訪ねたそうです。空中の数百メートルを隔てて、一瞬交わった二つの視線、二つの人生がつながりました。
「菅原さんとのご縁は、写真を取り続ける限り、一生のものになりました」。門田記者は、手にしたカメラを握って、そう言いました。
◇
初売りの土産に「負げねえぞ気仙沼」を2本求め、その帰り道、県道から少し離れた「本浜町1-1-1」の住所にある「すがとよ酒店」に立ち寄りました。
周囲は更地同然となった風景にただ1軒が残り、冬の夕陽を浴びていました。頑丈な鉄骨造りの柱が折れ曲がり、はげおちた壁、傾いた屋根が崩れるのを最後の渾身の力で耐えているような悲壮な姿。死と生の境に独り立ち、必死に手を振った女性の写真と重なるようでした。そして、3人の家族を失いながら、この家が菅原さんを守り抜き、生かしたとも思えました。
「12月中に解体されると聞いていたが、遅れているようだ」と菅原さんは話していました。「だから、暮れに家族で訪れ、家神さまにお酒を上げ、お別れをしてきた。なくなってしまうことが悲しいことか、いいことなのか、その時にならないと分からないでしょう」
店の正面に掲げられていた緑色の四角い大きな「酒 すがとよ」の看板は、流れ去ることなく、テントで始まった仮設の店を飾りました。その後、鹿折バイパス店の前に置かれて、「只只ひたすらに“今”を積み重ね生きて参ります」と手紙につづった女主人を今も守ります。

被災した当時の姿で立つ、すがとよ酒店。1月10日、家族立ち会いの下で取り壊された=気仙沼市本浜町1丁目

3月12日朝、ベランダから助けを求める菅原文子さん=門田勲写真部記者がヘリから撮影
(CafeVita/寺島英弥) この記事は講談社のウェブマガジン「現代ビジネス」にも転載されています。
3月11日の大津波でほとんどの建物が流され、荒れ野のような風景に無人の低層ビルがぽつりぽつりと立つ魚市場前、前日に近海マグロ船が正月明けの初水揚げをした漁港、仮設の店が集まって生まれた「復興屋台村 気仙沼横丁」を回って、車は鹿折(ししおり)川沿いに開けた街、鹿折(ししおり)地区に入りました。
『津波は、海岸から1.5キロ離れた国道45号まで押し寄せた。その後、火災が起きた。火は、JR大船渡線の鹿折唐桑駅前一帯を包んだ。今も焦げ臭さが覆う。住民の男性(75)は火災を目撃した。押し流された建物が集まり、3階ほどの高さに盛り上がった場所に火が移り、一気に燃え上がったという。「小さな火が連なり、天を焦がすほどになった。ボンベが夜通し爆発し、避難住民はなすすべもなかった」』(3月23日付河北新報)
鹿折地区を一直線に通る県道の両側は、被災した建物のほとんどが取り壊され、がれきも撤去され、むき出しの土色が広がっていました。JR気仙沼駅以北の運行が止まった大船渡線・鹿折唐桑駅の付近では、巨大な黒いサンマ漁船が視界いっぱいに現れ、あの日のままに道路脇に鎮座しています。通り過ぎる車がまるでおもちゃのようです。港から最短でも600〜700メートルの距離を流されてきたのです。おそらく、数え切れない家々を押し潰しながら。
やがて道が国道45号気仙沼バイパスと交差するあたり、西八幡町の津波の被災を免れた高台に車は入りました。あるオフィスビルの1階に間借りしたらしい、「すがとよ酒店・鹿折バイパス店」の前で、長道中のハンドルを握った門田記者は車を止めました。
◇
大きなヨシのすだれに「営 業 中」の手書き文字。赤い南天を彩りにした、背丈ほどの松飾り。「難を転ずる」という願が込められています。そして、気仙沼地方の早春の花、ツバキの模様のあでやかな暖簾。1月2日に行ったという初売りの雰囲気がそのままの店には、女性の店主らしい温もりがありました。
「初売りをやろうかどうか、迷ったんです。今年をどうしよう、という思いもあって。でも、やったほうがいい、前に進もう、と決めて、問屋さんに相談し、福袋も作った」と、菅原文子さん(62)は笑顔を浮かべました。「おめでとう、と言っていいものかどうか」と、お客も戸惑いの表情だったといいますが、2日だけで50人以上も来店したそうです。
店の棚には、「負げねえぞ気仙沼」という緑の瓶の酒が並んでいました。津波を免れた町の2つの酒蔵「両国」「男山」とタイアップして甘口、辛口をそろえ、菅原さんの筆による「気持ちラベル」を貼って売り出した地酒です。「美しい港町 気仙沼は かならず復興します」と、白いラベルには書き添えられています。復興祈願酒として売れているそうです。
「初めまして。突然のお手紙 お許し下さい、私は気仙沼市に住んでおります菅原文子と申します」。9月半ば、門田記者が職場で受け取った手紙が、「ある一瞬」に始まった不思議な縁の糸をつなぎました。「モンちゃん」と呼ぶ二十数年来の相棒で、連載「ふんばる」など震災取材の現場もよく一緒に歩いてきましたが、話を知ったのは、つい最近でした。
このブログへの転載を、お2人から許してもらった手紙には、こう続いていました。
「門田様が取材をしてくださった写真、物干し台で赤いタオルを掲げ、助けを求めていたのは私です。私が載っていた事は、息子はもちろん私も知りませんでした。驚きの中で我が身の姿と対面した時、門田様の記事を読んだ時、涙が止まりませんでした。助けを求めていた私もどうしようもなく悲しみの中で必死だった。あのヘリの人は、私をどんな風に見ているのだろう。見つけているだろうか……」
この写真とは、昨年8月に出された「東日本大震災 全記録」(河北新報社刊)に収録された1枚のことでした。この中で門田記者は「ヘリからの取材」と題し、3月12日の朝早く福島空港を飛び立ったヘリコプターから約3時間、被災後間もない宮城、岩手沿岸の町々の状況を空撮した体験を書きました。そこに載った1枚には『3月12日午前8時38分ごろ』のデータとともに、次のような説明の文章が添えられていました。
『自宅の物干し台で赤いタオルを掲げた年配の女性が、すがるように手を振り助けを求めていた。後日、女性は無事救出されたことを同僚記者から聞いた。ほっとした半面、迷いと後ろめたさは消えない』
◇
写っているのは、家の一番上の屋根に近いベランダで、ビールケースを踏み台にして立ち、首に白いものを巻いて、右手を振る女性。目印のためでしょうか、物干し竿に付けられた赤っぽいタオル、あるいは毛布が風に強くなびいています。背景は、津波が残した満々たる水。ばらばらになった家々の柱や板や屋根、家具などがぎっしりと浮いています。
写真のさらなる生々しさは、おそらくは200メートル以上の上空から超望遠レンズを向けた撮影者と、撮られた女性の視線が真っ直ぐに交わり、状況から離れて写真を見る第三者にまで視線が飛び込んでくることです。地上で私たち記者が重ねてきた当事者との出会いとは別の―互いに誰とも分からないながらも―極限での一瞬の邂逅であったに違いありません。
「どんなふうに、あのヘリから私を見ているのかな?と思った。そして、ここに生きていると知ってほしい、と思った」「でも、いくら叫んでも、ロープが下りてくるはずはない。不時着して助けてくれるはずがない。無理だよね。そうも思った。そう思いながら、必死に手を振っていた」
菅原さんは店で、あらためて写真をながめながら、そう語りました。
その時、立っていた場所は3階に当たる屋上で、家に避難していた近所の70代の女性が一緒にいたそうです。「階段を下りた2階の居間には、おじいちゃん(夫の父豊太郎さん・91歳)、おばあちゃん(母のり子さん・89歳)が、津波でめちゃめちゃに倒れた家具や冷蔵庫の陰で冷たくなっていました」
豊太郎さんは、最近はあまり歩けなくなっており、のり子さんがいつもそばに寄り添っていた、といいます。「2人は仲が良くて、居間で和んでいるのが好きだった」と、菅原さん。
津波が押し寄せた時は、「台所の時計の針が午後3時40分ごろを指していたのを記憶している」。居間に4人でいると、どこからかチャプンチャプンと水の音がして、窓から外を見ると、黒い水が地をはうように迫ってきたそうです。その時、「すがとよ酒店」の店主である夫・豊和さん(62)が外の軽ワゴン車から手提げ金庫を持ってきて家に入った―。菅原さんはそこまでを窓から見ました。でも、なかなか上がってきません。
心配になり、「津波が来たよ」と叫んで、2階にある居間の玄関から階段を下りていった時、店と棟続きの倉庫から豊和さんが現れました。みるみるうちに津波の水が浸入して夫の腰まで水位を上げ、「私が手を伸ばしたら、お父さんは振り向いてこの手を取った。確かに手を取ったのに、突然、別の方向から来た水の勢いに“ぱん”とくるまれ、のまれた。愛用の野球帽が宙に飛んだ。その瞬間を、私は見ていた」。
夫の姿は、木造の倉庫とともに消え、水かさは急激に増して2階の天井まで上った、といいます。わずか10秒ほどの間の出来事でした。
◇
地震が起きた後、市役所の広報無線が「大津波警報」を告げていたそうです。「避難する時間はなかったのですか」と、私は尋ねてみました。店にいた菅原さん夫婦はすぐ2階に上がって、昼寝をしていたという豊太郎さん、のり子さんの無事を確かめました。豊和さんはまた階下に戻って店のシャッターを閉め、倉庫へ行ったのだそうです。ちょうど金曜で、生ビールの19リットル樽など、在庫の品がいっぱいになった日でした。
近隣は「かもめ通り商店街」(浜商栄会)の名で知られました。「“シャッター通り”になることなく、みんな活発で、頑張っていた商店街だった」と、菅原さんは言います。8月には恒例の「かもめまつり」を催し、すがとよ酒店の前がちょうどメーン会場でした。
『壮大な姿を披露する「はしご昇り虎」と来場者が参加できる「200m大綱引き」が、毎年観客を魅了するお祭りです。「はしご昇り虎」は60名の太鼓競演の中、笛のはやしに合わせて特設12mのはしごの先端で勇壮なアクロバティックな舞を披露します。「200m大綱引き」は、200mの大綱に1000名の観客が参加して大漁、豊作をかけ綱を引き合います。(中略)5000人以上の来訪者のある気仙沼でも有名なイベントになっています』(気仙沼商工会議所の商店街イベントカレンダーより)
「商店街では、店に残ったり戻ったりして亡くなった人が多かった。夫も、倉庫の品はもうどうしようもなかったのだけれど、やはり店を離れがたかったのかもしれない」と菅原さん。そんな愛着深い商店街が、「津波で川のようになった。大きなマグロ漁船が流されてきて通り過ぎ、隣のレストランがその後を付いていくように流されて、うちの店の前面を壊していった」
一緒に店を切り盛りしていた息子の豊樹さん(38)、英樹さん(36)は、豊和さんから「自分たちのの車を避難させろ」と言われ、それぞれ子どもたちや、奥さんの両親の無事を確認に行き、その後、津波のため店に戻れなくなりました。鹿折地区の多くの住民が避難した丘陵で不安と寒さの夜を明かした後、翌12日、ベランダから手を振る母親の姿を見つけて、がれきと泥水の中を迎えにいったそうです。
店は全壊し、夫は行方不明のまま。得意客も被災者となり、所持金は親子合わせて9千円、借入金もありました。無我夢中の3月が過ぎ、「どうやって生きていこう」と悩んだ時、街の人から「すがとよさん、また、お酒が欲しいんだが」との声が掛かりました。
長年の付き合いの卸問屋に相談したら、「心配しないで。今まで通り、伝票で仕入れて」と言われ、再開の場所も、自宅の建築を手掛けた業者が高台の太田1丁目に13坪の土地とプレハブを手配してくれたそうです。店のがれきの中から約400本の酒を家族で掘り出し、4月23日、テントの下で売ることから始まりました。豊和さんがシャッターを閉めてくれたおかげで、お酒類を流失させずに済み、息子たちは「父が再起の種をくれた」と胸を熱くして語り合いました。
◇
菅原さんは6月、行方不明のままの豊和さんら3人の葬儀を行いました。8月、太田の店を息子たちに任せて自分が店主となる2番目の仮設の店・鹿折バイパス店を開きました。「遺骨の代わりに野球帽を入れました。夫が見つかったら思い切り泣こう。前を向こう、と思った」。そんなころ、「あの日の自分」の写真に出合いました。「これ、かあちゃんだろ?」と、英樹さんが本を買ってきたそうです。
『手を差し伸べたいが、何もできなかった。無力感と罪悪感が交錯する』『「何やってんのかな」「誰のために撮影しているのだろう」。心が折れそうになった。使命感? 伝える? 記録に残す? 言い訳はたくさん用意できたが、どれもうそに思えた』『空撮するヘリのエンジン音は、屋根の上やがれきの上で助けを待つ人の希望を踏みにじっていたのかもしれない』。それでも写真を撮り続けた、今も説明は付かない、と門田記者の手記にあるのを、菅原さんは読みました。
「この店で次男から見せられ、衝撃的でした。泣けて、涙が止まらなくなった。固まっていた気持ちが解けるように。撮る側の人も苦しんでいたことが分かった」。菅原さんはこう話しました。「気が狂いそうだったのに、『生』に向かって手を振っている自分がいた。生きたいんだ、生きようとしていたんだ。そういうものに衝き動かされていたんだ。夫と共に1度死んだ私が、新しく生まれ変わり、生き抜くんだ、という原点の写真になりました」
大船渡、陸前高田まで飛んだ門田記者の約3時間の空撮の後、3月12日付河北新報には、想像を絶した沿岸の被災状況の写真特集が組まれました。およそ1000回シャッターを切ったという写真の1コマ1コマが、限られた紙面で当然ながら、すべて世に出るチャンスはありません。それこそ、すさまじい惨事の映像は他にもあったかもしれません。なぜ、撮影者自身の手記に、菅原さんの写真を選んだのか。私はあえて、その場で尋ねてみました。
「自分が目にした限り、たった1人で手を振っていた人は他にいなかった。女性がとても必死に。赤っぽいタオルの色とともに、目に焼きついて離れなかった」「たまたま気仙沼の事情に詳しい記者から『この人を知っている。無事ですよ』と聞いて、よかったと安堵した。それでも、何にもしてあげられなかった、申し訳なかった、という気持ちはずっと消えなかった」。手記につづられた言葉の数々も、写真の菅原さんに送られていました。そして、菅原さんから手紙が届いた後の10月、気仙沼取材の機会に訪ねたそうです。空中の数百メートルを隔てて、一瞬交わった二つの視線、二つの人生がつながりました。
「菅原さんとのご縁は、写真を取り続ける限り、一生のものになりました」。門田記者は、手にしたカメラを握って、そう言いました。
◇
初売りの土産に「負げねえぞ気仙沼」を2本求め、その帰り道、県道から少し離れた「本浜町1-1-1」の住所にある「すがとよ酒店」に立ち寄りました。
周囲は更地同然となった風景にただ1軒が残り、冬の夕陽を浴びていました。頑丈な鉄骨造りの柱が折れ曲がり、はげおちた壁、傾いた屋根が崩れるのを最後の渾身の力で耐えているような悲壮な姿。死と生の境に独り立ち、必死に手を振った女性の写真と重なるようでした。そして、3人の家族を失いながら、この家が菅原さんを守り抜き、生かしたとも思えました。
「12月中に解体されると聞いていたが、遅れているようだ」と菅原さんは話していました。「だから、暮れに家族で訪れ、家神さまにお酒を上げ、お別れをしてきた。なくなってしまうことが悲しいことか、いいことなのか、その時にならないと分からないでしょう」
店の正面に掲げられていた緑色の四角い大きな「酒 すがとよ」の看板は、流れ去ることなく、テントで始まった仮設の店を飾りました。その後、鹿折バイパス店の前に置かれて、「只只ひたすらに“今”を積み重ね生きて参ります」と手紙につづった女主人を今も守ります。

被災した当時の姿で立つ、すがとよ酒店。1月10日、家族立ち会いの下で取り壊された=気仙沼市本浜町1丁目

3月12日朝、ベランダから助けを求める菅原文子さん=門田勲写真部記者がヘリから撮影
(CafeVita/寺島英弥) この記事は講談社のウェブマガジン「現代ビジネス」にも転載されています。
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- 12年05月08日 17:52
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こちらこそ、ごぶさたしました。お変わりありません
か。
ほんとうに寒いですね。盛岡では−25度だったとか。そ
ちらはいかがですか。仙台も氷点下の朝が続いて、道はつる
つる。すっかり着ぶくれの毎日です。
野田村のこと、少しずつ動きがありますね。寒い冬に届
く支援は、うれしいことです。人の暮らしも、春に向けて少
しずつ、戻ってきますよう。
ありがとうございます。きょう31日は、遠路、仙台
まで足を運んでいただき、恐縮いたしました。京都、関西の
方々に被災地からの声をお伝えでき、つながりを作っていた
だくチャンス、ありがたく参加させていただきます。仙台に
ご縁を深められた佐分利さんならではのお仕事ですね。楽し
みにしております。
こちらこそ、先日はありがとうございました。拙い
お話で恐縮でしたが、貴重な機会をいただきました。海境さ
んからお声を掛けていただいて、光栄でした 。ほんとう
に、もうすぐ、あれから1年が巡ってくるとは信じられませ
んね。あの日は、きのうのことのようですから。だれの思い
も癒されることなく、時だけはすぎ、風化と風評の壁だけは
厚くなっていくことへの懸念ばかり強くなります。壁を貫い
て伝えることを念じて、このブログも書き続けようと思いま
す。今年もよろしくお願いいたします。
ご無沙汰です。あっという間に大寒も過ぎ、ちょっぴり日
がながくなりました。
先日泉のショッピングモールにはじめていきました。
野田村図書館復興は、盛岡大学が全面的に支援してくれる
ことになり
学生さんやボランティアの方々のご協力で復活しそうです
。
人の有り難さが身にしみます。
寺島さん、風邪ひかないようがんばってください。
院にて講義をお願いした際は本当にお世話になりました。シ
ビック・ジャーナリズムの話、大変感銘を受けました。
(教え子が一人寺島さんのお話に感動して?新聞記者にな
りました。)
仙台に2年間在住した身として、多くの教え子が東北出身
である教師として、今回の震災は大変なショックであり、復
興に引き続き協力させていただきたいと思っております。
3月8日に京都大学で行う被災地復興シンポジウムへの出
席を御快諾いただきありがとうございました。被災者として
の想い、様々な現場の相対的・客観的な報告、大所高所から
の未来へ向けたビジョン−このうち一つを語れる方はいらっ
しゃいますが、3つすべてを語っていただける方はなかなか
いらっしゃいません。寺島様にシンポジウムに御出席いただ
けることを、本当に心強く思います。どうぞこれからもよろ
しくお願いいたします。
本日のTODAS「新春特別講演会」ご苦労様でした。
取材を通しての貴重な体験談、数多くのことを学ばせて頂
きました。
ありがとうございます。
文中の、門田記者の菅原さんに対する複雑なご心境、お察
し申し上げます。
私のブログにもたびたび書きましたが、数名の友人や知人
が、今回の津波の犠牲で亡くなっています。
そして、海水に腰までつかり、崩壊した家の天井で一晩過
ごした人の話も聞きました。津波に呑まれていく人と目が合
ったときのことが、いまだに脳裏に焼きついているとのこと
です。言葉を発せず、目だけで助けを求めているようだった
と言っていました。
復旧・復興はまだまだこれからですが、今回の被災ではい
ろんなことを考えさせられました。
パス店
菅原さん(右)と門田記者
沼横丁」