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余震の中で新聞を作る56〜種まく人・その後 新しき年、そして慰霊

 2012年が明けて、快晴となった1月2日のことです。私は帰省先の相馬市の実家から車で、南相馬市原町区萱浜の農業・八津尾初夫さん(62)を訪ねました。昨年3月11日の津波で自宅と農地、苗作りのハウスを流され、妻一子さん(58)を亡くし、農業者、区長として萱浜地区の再生に取り組んできた八津尾さんが、どんな思いで新年を迎えたのか、気になっていたからです。
 同市鹿島区の仮設住宅から移った先の現在の住まいは、自宅から800メートル余り北西の田園に10年ほど前、こじんまりと開かれた住宅地の1軒。たまたま引っ越しをした知人から借りることができた、といいます。およそ10軒が立つ住宅地は、海岸から1・6〜1・7キロくらい離れ、津波の到達を免れました。住宅メーカーの建築と分かる2階建てのきれいな家には庭もあり、花苗を育てる八津尾さんらしく、黄色や紫のパンジー、ビオラが花壇に咲いていました。
 庭の隅に、大きな臼がごろり。「古い臼を捨てよう、という人からもらったんだ。毎年の暮れに餅つきをしているので、ここでもついたよ」と八津尾さん。玄関には大小の靴がいっぱい並び、にぎやかなおしゃべりが奥から聞こえてきます。「家族がみんなそろった。子どもが3人に、内外合わせて孫6人。去年の3月には、団らんなど想像もできなかったが」
 
 新年の挨拶を交わした後、仏壇のある和室に。八津尾さんは、津波で流され、仮社殿が建てられた萱浜の綿津見神社で元朝参りをしたんだ、と語った後、テーブルに1枚の大きな写真を広げました。今は土台しか残っていない自宅の全景が写った、昨年11月撮影の航空写真でした。現物は流失しましたが、撮影元にコピーがあると聞いて、お願いし、もらったそうです。私も見たことのない家の往時が、そこにありました。「昭和55年に建てたんだ。母屋は60坪(約200平方メートル)あった。ここに張り出しているのは、子どもたちのために建てた新しい棟。最初に苗作りをしたハウスも見える」。自慢の家でした。
 北側には、うっそうとしたケヤキの屋敷林の緑があります。現在も、自宅跡に8本残った大木です。「津波で、杉の木は爆弾を受けたように倒れたが、ケヤキはびくともしなかった。5月に新緑をつけたが、9月になったらみんな葉を落とした。津波が残した塩分が、地中に下がったんだ。今年、葉を出してくれるかどうか、心配している」。ケヤキは、思い出の家の形見になったからです。
 仏壇に、一子さんの遺影、遺骨があります。自宅近くにある集落の墓地も被災し、墓石の倒壊や流出でめちゃめちゃになりました。八津尾さんは「墓を直して、2月の下旬には寺で法要をして、妻の納骨をしてやりたい」と語りました。ようやく、その日が来ます。
 一子さんの形見の品として津波の後に見つかったのが、1本の和服の帯と、「夫婦2人でもらった」とがいう「福島県農業賞」のクリスタルの盾だけだった、と「余震の中で新聞を作る23〜種まく人」で書きました。昨年末、思わぬ朗報と贈り物があったそうです。
 一子さんが生前、会員として熱心に活動していた国際農友会南相馬支部の知人が、県に働き掛けて、家と共に流された県農業賞の賞状と、佐藤雄平知事による授与式の式次第、その記念写真のコピーが、八津尾さんに送られてきたのです。「どちらかが先に死んだら、2つに切った片方を棺に入れてやる」という約束の通り、「木箱に入れ、墓に納めたい」。

                     ◇

 自宅も、畑の保全と津波犠牲者の鎮魂のため昨年、220人のボランティアと一緒にヒマワリをまき、咲かせた「ひまわり大作戦」の会場近くの農地に建てたい、といいます。「農地の転用に役所のOKをもらった。9月には引っ越せるだろう。俺は、被災した自宅を建て直したかったが、嫁や孫が『海に近い土地は、もう怖い』と言うんだ。昨年、市から案が示された復興計画で浸水地域と線引きが決まれば、無論、もう住むのは難しいが…」
 屋根の付いた井戸も、航空写真に写っていました。これも、水に塩分が混じって使えなくなりました。別の井戸が西側に離れた畑にあり、やはり津波をかぶりましたが、「70〜100メートル掘った井戸なので、影響が出ないことを願っているんだ」。無事に使えるならば、そちらに作業小屋を建てて、今年からの農業再生の本拠にする、という考えです。まず、「ハウスで5〜6万ポットの野菜苗を作りたい」という計画を、八津尾さんは語りました。「トマト、ナス、キウリ、ナス、シシトウ。毎年、30〜40万ポットは作っていたんだ。春に向けて、種まきの準備もしなきゃならん」。問題は、畑をどうするか、でした。
 「ひまわり大作戦」では、自身や近隣の農家仲間が震災前までブロッコリーを栽培し―津波の塩害は免れましたが―、ほとんどの作り手が犠牲になった計約7ヘクタールの畑の保全を引き受け、雑草を除去しながら耕し、夏の日に燃え上がるようなヒマワリの畑を育てました。「今年はどうするか。また任せてもらえるなら、引き受けるが、それぞれ相続の問題がある。やるにしても、1人では無理。5〜6人のスタッフがいる会社を作らなくては」

 田んぼも、この時点でまだ結論は出ていませんでしたが、南相馬市は除染を優先し、2年続けて作付け見送りを行う公算が高まっていました(2月11日の河北新報には次のような記事が載りました。『南相馬市地域農業再生協議会は10日、福島第1原発事故を受け、本年産米の作付けを市内全域で前年に引き続き見合わせる中間方針案を全会一致で可決した。福島県によると、県内市町村で本年産米の作付け見合わせを決めたのは初めて』)。それでも、できるところから地元の農業の復興を、というのが八津尾さんの思いでした。

 悩みもありました。昨年は10月下旬から再起の第一歩としてパンジーとビオラを33000ポットを、原町区の山沿いにある仲間の農家のハウスを借りて作りました。冬を越し、新しい春を飾る花です。長年、苗の販売先だった地元と宮城県白石市のホームセンターを中心に出荷し、「例年なら12月中に完売した数」でしたが、年末で3分の1が売れ残りました。「風評被害ではないと思うが、多くの人が南相馬から離れたままだったり、まだ花を植える気持ちにもなっていなかったりしているからか」。
 苗を無駄にしたくない思いで、10月から授業を再開した地元の大甕小や、仮設住宅、花を植える活動をしているNPO、今年3月を目標に避難先のいわき市からの移転準備を進めている福島県広野町(福島第1原発の南)役場などを回り、寄付してきたといいますが、それでもさばききれないまま、日に日に苗は伸びていました。「学校や施設、役所とか、1000株単位でもらってくれるところがれば、寄贈したいと思う。仙台や福島あたりまでなら、届けられられるんだが」
 私も、売れ残った苗のもらい手探しを助けられるかどうか、考えてみることにしました。

                     ◇

 1月10日、私は萱浜の地元・大甕小の3学期の始業式を訪ねました。昨秋から編集に携わる「かほピョンこども新聞」の取材です。福島第1原発から20〜30キロ圏の「緊急時避難準備区域」指定解除に伴い、大甕小は昨年10月17日から、除染された元の校舎で授業を再開しました(当時戻ったのは、全校児童204人のうち75人。うち73人は自宅や仮設住宅から30キロ圏外の同市鹿島区の小学校にバスで通っており、2人が県外の避難先から戻りました)。
 その後の12月、花を寄付に行った八津尾さんに同行し訪ねた時のことを「余震の中で新聞を作る48〜種まく人・その後/花に託す」で紹介しました。初めてお目に掛かった平間勝成校長(60)が、私の高校の大先輩で、やはり教師だった父親と飯舘村の中学校の元同僚と分かり、その縁もあって、「ぜひ、始業式に来てみて」と、声を掛けられたのでした。
 この日も寒い朝でしたが、体育館には寒気も溶かすような子どもたちの笑顔がありました。毎週日曜発行のこども新聞は、「被災地の子どもたちを応援する」をフロント面のテーマにこれまで24号(2月19日現在)を重ねましたが、岩手から福島まで歩いた取材では、一度として疲れを感じたことがありません。困難な状況にあっても、真冬にも決して凍ることのない若木のような成長の熱が子どもたちの心身にはあって、存在そのものが希望であると思えてくるからです。むしろ取材者の側が、何度も救われた思いがあります。

 「ボー、ホー」「ボー、ホー」。相馬地方の人間にはなじみの響きが、ステージから発せられました。相馬野馬追の騎馬武者そのものの真っ赤な陣羽織を7人の児童がまとい、長い指揮棒に合わせて、大きな法螺貝を吹奏したのです。地元の騎馬会士の大人たちが師匠役になった特設クラブの子どもたちで、始業式などの恒例になっているそうです。震災のため縮小開催された昨年7月の野馬追では、津波の犠牲者を悼む「伏せ貝」の深くこもった、悲しい響きを出陣式で聴きました。その時とは違う、元気な、おおらかな音でした。
 始業式で恒例なるものは、もう1つありました。各学年の児童がステージに上がり、一人一人、休み中にどう過ごしたか、そして新学期の抱負を発表するのです。学期ごとに1、3、5年と2、4、6年が交代に上がり、今回は前者の番です。

 「いとこが遊びに来て楽しかった」「縄跳びを1分間、飛びたい」「字をきれいに書きたい」「父の実家のいわきで遊んできた」「成績をみんな『良い』にする」「音楽の鍵盤を頑張りたい」「いとこと、たこ焼きパーティーをした」「(地元の)太田神社に初詣に行って、新しいお守りを買ってもらった」「グリーングリーン(仙台郊外のホテル)のプールで泳いだ」「餅つきをして、食べた」「(宮城県)名取の映画館で『怪物くん』を観た」「クリスマス会でプレゼントをもらった」「仙台にスキーに行った」「(相馬市の)中村神社のおみくじで大吉を引いた」「太田神社で毎年(恒例)の投げ餅を拾えた」「鼓笛隊の大太鼓を頑張る」「東京に行ってスカイツリーを見た」
 こんな声もありました。「きょうから大甕小に来ました。よろしくお願いします」(宮城県大河原町から戻った1年女子)、「埼玉(さいたま市)から帰りました。本当にうれしかった」(5年女子)。新たに県外から戻り、この日、旧友と再会した子が3人もいました。
 
 「2学期の終わりに、児童は81人になっていた。そして、新学期は84人。少しずつ、帰ってきてた。原発事故の後の昨年4月、地元に残ったのは40人だったから。保護者の意向調査では、『年度が変われば、地元に帰りたい』という人が多い」。平間校長は、目を細めて子どもたちを眺めていました。「壇上の発表を聴いて、子どもたちもやっと、普通の冬休みを送れて、普通の目標を描けるようになった、と思えた。校庭では1日2時間だが、勉強より、思い切り遊んでほしい。仮設住宅にいれば、隣人に迷惑にならぬよう、と窮屈にしなくちゃならない。いろんなことを忘れて走り回れる。それを、親も一番望んでいる」

 始業式には、区長の八津尾さんも出席し、先生方と一緒に並んでいました。学校の再開のため、花壇作りや除染作業に取り組んできた地元の1人として、どんな思いで式を見守ったことでしょう。「子どもたちの元気な姿を見られたことは、何よりもうれしい。きのうも、(住民でつくる)大甕復興会の人たちと、学校の花壇のウィンターコスモスを、もっと咲き続けるように手入れしたんだ。子どもは、われわれの宝。復興への気持ちの支えだ」

                        ◇

 それから、ひと月後の2月11日。寒い朝でした。私は、大甕小の向かいにある大甕生涯学習センターに向かいました。着いたのは午前9時過ぎ。既に三々五々、黒い服に身を包んだ家族らが訪れていました。会場のホールに入ると、正面に大きな祭壇が設けられており、花に囲まれて「東日本大震災萱浜犠牲者之霊」と墨書された柱が掲げられていました。3月11日の津波から一周忌を前にして、萱浜行政区が慰霊祭を催したのでした。
 式次第には、犠牲になった住民一人一人の名前と年齢、地区名が記されており、御霊は計77人。このうち18人はいまだ見つかっていません。行政区に入っている住民の犠牲者62人と、アパートなどの新住民の犠牲者15人の合同の慰霊祭となりました。その数は、南相馬市全体の犠牲者(計631人)の1割を超え、地域の痛みの深さを伝えます。
 遺族の方々は、会場に着くと、祭壇の前に歩み、風呂敷包みなどを広げて、失われた肉親の遺影を取り出し、じっと見詰め、安置していきます。50人近くの遺影が並び、右隅に、手を合わせるたびに微笑を返してくれるような八津尾一子さんのお顔がありました。

 午前10時、開会の辞に続いて黙祷。そして、4歳から90歳まで、名簿にある名前が紹介されました。そこには、大甕小の児童らの名も並び、平間校長の献花も祭壇に供えられていました。読み上げた男性は何度も声を詰まらせ、その度に重い沈黙が会場を包みました。
 主催者の挨拶に立ったのは八津尾さんでした。書き留められた限りのお話を記します。
 「あの悪夢のような3月11日から、間もなく1年になろうとしています。けさも(被災した)自宅まで車を走らせたましが、あれは夢ではなく、現実であったと知りました。目の前に迫る海岸線、いぐね(屋敷林)が数本、あとは荒涼とした大地。人情厚く、緑豊かな萱浜はなくなってしまった。そして、萱浜の地域の一翼を担っていた人、これから担っていく人が59人亡くなり、さらに18人の方々はいまだ家族の元に帰っていません。あの日まで一緒に暮らした家族はいません。農地もまた甚大な被害を受けました。
 犠牲になった人たちは、私たちに何を望んでいるのか。それは、現実を認め、1日も早く立ち直り、元気を取り戻すことではないでしょうか。まず、津波に対してあまりに無防備だったことを反省し、この惨状を後世に伝えたい。住民の再起、地域のコミュニティーの再生、放射能への不安など、課題も山積しています。まだ明日も見えませんが、以前にあった以上の地域をつくり、子どもたちが集う萱浜にしたい。多くの人に支えられながら、再興に努力することを誓います」

                       ◇

 売れ残った花のもらい手探しのことですが、1月14日の河北新報にその旨を伝える記事が載りました。当日から反響があり、数日間で18件に上ったそうです。八津尾さんは、5000ポットを車に積んで仙台と近郊を巡り、会社や施設など13カ所に寄贈してきた、と語りました。被災地の思いとともに「種まく人」が育てた花苗たちは今、厳寒の中で新しい春を待っています。


空撮写真を前に自宅の思い出を語る八津尾さん。仏壇に妻・一子さんの遺影=1月2日



再発行された福島県農業賞の賞状

(CafeVita/寺島英弥) この記事は、講談社のウェブマガジン「現代ビジネス」にも転載されています。
 
                
カテゴリ
日記
日時
2012年02月19日04:45
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南相馬市・大甕小の始業式=1月10日(左)/1月29日
の「かほピョンこども新聞」1面

投稿者
編集委員・寺島英弥
日時
2012年02月19日04:44
始業式の後、語り合う八津尾さんと平間校長(左)/萱浜地
区の慰霊祭=2月11日、大甕生涯学習センター

投稿者
編集委員・寺島英弥
日時
2012年02月19日04:41
遺影の前に献花し、手を合わせる遺族ら(左)/遺影の前の


投稿者
編集委員・寺島英弥
日時
2012年02月19日04:36
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