Cafe Vita
新聞は人のつながりを創るCafe。暮らし、文化、社会、メディア…。日々のニュースと私たちをつなぐものを探し、語りましょう。
余震の中で新聞を作る23〜相馬・南相馬へ/種まく人
「紹介したい人がいる。農家の仲間なんだ」。南相馬市原町区太田の市議・農業奥村健郎さん(54)からのお話で、同僚の写真記者と萱浜(かいばま)地区を訪ねたのは5月1日でした。(余震の中で新聞を作る22回参照)
福島第1原発から20キロ圏のすぐ外にあるJR磐城太田駅から、北東に約2キロの海岸部。約束の時間は午前8時です。南下してきた自衛隊の車列の後に続いて国道6号を左に折れると、間もなく周囲の様子が変わりました。
がれきやごみが散乱する田畑、道路脇の漁船、半壊した家々が現れ、背の高い防風林を縫って浜近くに出ると、そこは、ほとんど何もない荒れ野の風景。70戸あると聞いた集落は、津波で消えていました。
車を止めて目に入ったものは、たった1軒、北外れに半壊の姿で残った大きな日本家屋と、その前に並んだ自衛隊車両、行方不明者の情報が貼られた掲示板、その脇に立てられた鯉のぼりでした。掲示板には、「あきらめないで頑張りましょう」「ファイト!」のマジックの文字と色紙の花々。
その端っこに高校生らしい制服姿の集合写真が貼られ、何かの大会のメダルを得意げに見せる若者たちの中で、1人だけ顔を黒い円で囲まれた男子生徒がいました。彼もまた行方不明なのかもしれません。ふと、足元で光る物に気づいて、見ると、線香や献花に添われたメタリックの携帯電話が4本。どんな声を、最後に聞いたのでしょうか。
目を南に転じると、樹高20メートルほどありそうなケヤキが8本、鈍色の曇天にそびえ、遠目に枝先は芽吹いているよう。むき出しの大地に残った木々の下で、黒いトレーナー姿の八津尾初夫さん(61)が待っていました。
◇
自慢の広い家だったのでしょう。流されて土台だけになった母屋の玄関あがりに、「どうぞ休んで」と八津尾さんは勧めてくれました。周囲には、ぐしゃぐしゃになったハウスの残骸が見え、庭先には農業機械の部品やタンク類、ソーラーパネル、三輪車などが置かれ、最近植えられたらしいパンジーがまぶしいほどの色彩を放っています。
「いまも、午前2〜3時に目が覚めてしまうんだ」と、原町区の身内宅に同居する八津尾さん。津波の以前には、24棟・計60アール分のハウスが並び、びっしりと野菜や花の苗が育っていました。そして、春に4ヘクタール、秋には9ヘクタールものブロッコリー畑、水田が15ヘクタール。「苗や畑に水をやるのに、たっぷり4時間。それから一風呂浴びたもんだ」。自宅には、「八津尾農園」の看板が掲げられていました。パートの従業員が5人、繁しい時期には14〜5人が働いていたそうです。天井のない玄関で話を聴きながら、私は、失われた時を目の前の景色に重ねていました。
「毎朝、4時半にここに“出勤”して、線香を上げ、遺品を探したり、使えそうな機械の部品を回収したりするのが日課になった。トレーラーや、トラクターのローターがきれいに残っていたよ」
遺品とは、妻一(かず)子さん(58)の形見の品のこと。見つけたのは唯一、黒地に銀の模様が入った帯1本のみ。「日本舞踊の名取になった、2月に発表会をしたんだ。着物が好きで、たくさん持っていたんだが」。八津尾さんはにわかに声を詰まらせ、涙を浮かべました。
3月11日午後2時46分ごろ。八津尾さんは自宅から1キロ余り離れたブロッコリーの畑で、パート従業員と一緒に肥料散布をしていました。激しい地震に驚き、家が心配にになって、飛んで帰ったそうです。
「屋根の『ぐし』が崩れていたが、家族従業員も、誰もけがをしていなかった。隣の集落の北萱浜(95戸)に住んでいる本家のおじいさん、おばあさんも連れてきて、私の母(トシ子さん・80歳)や近所の人も一緒になって、プレハブの休憩室でお茶のみをしたんだ。女房がお茶を出して」。いや、おっきな地震だったが、何事もなくてよかった、と。
長男(和博さん・30歳)の奥さんが運転する車で、小学1年、幼稚園年少組、1歳の孫たちもそろって帰ってきました。予期せぬ団らんの楽しみが続くはずでした。
◇
「そうしたら。年寄りは何か昔の経験があったのだろうか、本家のおじいさんが突然、海の方を見て『くっとー(来るぞ)』と大声で叫んだ。900メートルほど東の浜にある松並木から大きなしぶきが上がり、一瞬で松は波をかぶって見えなくなった。その後すぐ、どす黒い津波が来た。高さ20メートルはあったような気がする。すかさず、みんな、車に飛び乗った」
南相馬市の海岸を襲った津波の映像(浜の名は不詳)を、ネットで見つけることができました。八津尾さんが語った通り、津波の第1波が松並木のあたり(その手前の防潮堤と思われます)にどーんという衝撃でぶつかり、恐ろしいほどの高さのしぶきが上がって、まるで城門を破壊した後の軍隊のように「黒い壁」が押し寄せました。
萱浜から段丘の緩い坂を下るとすぐ、ご本家のある北萱浜に至りますが、その集落も跡形なく消えていました。やはり一瞬のことだったと思われます。
八津尾さんは、トシ子さん、和博さんの家族の計5人、一子さんは本家の老夫婦をそれぞれ乗せ、2台の車で逃げました。西の国道の方向へ、八津尾さんは一辺100メートルの田んぼ脇の真っすぐな道で車を加速させながら、バックミラーで一子さんの車を見続けました。急げ、急げ、と。途中、カントリーエレベーターに向かう途中の交差点を右折した折です。「後ろを見たら、すぐ間際まで津波が迫ってきていて、女房の車が見えなくなった」
前方では電柱が倒れ、重いトランスがぶら下がって振り子のように路上に振れていました。八津尾さんの車は、「0コンマ数秒」にも思えた間隙をくぐり抜けました。「あれも生死の境だった」といいます。「止まらないで、行って」と怖がって泣く孫たちの声に抗いながら、それから3回、4回、止まっては後ろを見て、一子さんの無事を確かめようとを待ちました。が、ついに現れず、車は国道沿いにたどり着きました。
八津尾さんはあきらめず、知人の車を借りて引き返し、妻の車を探そうとしましたが、津波の潮が引かないまま。その後も、昨年のクリスマスに沖縄で結構式を挙げたばかりの長女(みゆきさん・35歳)の婿さんの父親と一緒に、懐中電灯を手に午後10時まで探し続けたそうです。しかし、見つかりませんでした。
「うちの女房は、娘の結婚を喜んでいた。親の役目を果たして一安心と喜んでたなあ」。家族だけで行った沖縄の思い出を語り、八津尾さんはまた声を詰まらせました。
◇
八津尾さんは、旧原町市(原町区)の農家に生まれ、父は昔ながらの養蚕と水稲を営む農民だったといいます。自身が農業を志したのは、26歳の時。親類の世話で福島県飯舘村出身の一子さんと見合い結婚をし、その翌年、小さなハウス1棟を建ててました。「父とは違う生き方をしたい。新しい農業をしよう」と話し合い、2人で野菜づくりを始めたそうです。
地元で種苗市があると聞き、野菜の苗を作って余ったものを出してみたら、売れたのです。「当時はナス、トマト、ピーマンしかなかったが、翌年も出したら、2日間で17万円も収入があった。さらに数年後には5〜7種類に増やし、売り切れないほどになって、『さて、どうしよう』と2人で頭を悩ませていたら、仙台市場に出荷していた地元の友人が『こっちの園芸市に出せ』と言う。
折から園芸ブームで、仙台でも飛ぶように苗が売れた。やがて、さばききれなくなって、首都圏にも販路を広げたんだ」
そのころには、コメ、野菜作りと3本の柱で地元でも先端的な複合経営の農家となっており、八津尾さんは「企業的な農家経営」への関心と意欲を深めました。一子さんも1997年に初めて欧州への海外研修に参加し、夫との夢を共有してゆきます。「たまたま、女房の海外研修と繁忙期が重なり、これを機会に人を使ってみようーと、そこから従業員の雇用も始まった」
八津尾さんは時間さえあれば、志を同じくする地元の農家仲間との苗作り研究会活動に取り組み、一子さんは 複合農業の経営計画や従業員の雇用管理を担当し、「二人三脚のパートナーとして頑張ってきた」といいます。
行方不明になった一子さんは、3月25日の午後2時20分に見つかりました。津波から逃げる途中、八津尾さんが車を見失った場所から700〜800メートルも流されて。重機が片付け作業をしていたがれきの下、愛車のシルバーメタリックの“CUBE”の車内で、守ろうとした本家の老夫婦と一緒に亡くなっていました。
「置き去りにしてきた」という自責の念に、八津尾さんは苦しんだそうです。一子さんとの思い出の品は、もう一つ残りました。2007年に受賞した福島県農業賞のクリスタルの盾です。流されることなく、自宅近くの畑の土の上に横たわっていました。
「農業経営改善部門」での受賞は、2人の夢の成果でした。「女房の力が半分。死ぬ時は、盾を半分にすっぺ、と言ってたんだ。お棺に入れてやろうと思った。が、できなかった。どうしても、できなかった」。俺には、まだ、やることが残っているんだ、と。八津尾さんは男泣きしました。
◇
自宅から2キロ近く西にある畑に、八津尾さんは案内してくれました。「見てくれ、葉が伸びている」。指差す先には小さな緑が芽生えています。約10メートルのうねに淡い帯となって。「大根だよ。2枚の子葉の間から本葉も見えるだろう」
4月8日に種をまいたそうです。隣のうねにはほうれん草の芽が出ており、カボチャの苗も小さなビニールの覆いの中で伸びていました。ジャガイモももうじき、と八津尾さん。畑の端には「塩害 テスト栽培」という札が立っています。すぐ近くの木立や民家の壁には、この場所でも1メートル近い高さの波が来たことの痕跡が見て取れました。周囲の田畑にはむろん、農家が一番忙しい季節だというのに、人影もありません。
「また、農業をやりたい。津波の潮をかぶっても、今までのようにやれるんだ、ということを実証したい」。被災地が背負った塩害の克服。八津尾さんが取り組む新しい仕事でした。
5月の連休にインゲン、枝豆、トウモロコシの種をまき、下旬にはトマト、ナスなど果菜類の苗を植えて、塩害に強い作物、弱い作物を、夏の収穫までテストしたいという。「田んぼの塩害からの復旧には時間が掛かるが、畑では何でもため試して、情報を農家や県にいち早く提供するつもりだ」
八津尾さんには、厳しい研究者のような篤農家の顔が戻っていました。
一子さんを喪くした痛手から立ち上がるまでに、八津尾さんもまた避難生活を送らねばなりませんでした。
津波の翌日、20数キロ先の福島第1原発で最初の水素爆発事故があり、放射能漏れの危機に地元でも、「自主避難」のための緊急説明会が開かれました。八津尾さんは親類の2トントラックを借りて、コメや毛布、燃料をトラックいっぱいに積んで、16日の深夜11時に出発。東京・あきる野市の次女の家に身を寄せました。
しかし、いても立ってもいられず、現地の町内やお孫さんの幼稚園の保護者や園長らに話して、毛布、衣類、薬、おむつ、日用雑貨などの支援物資をもらって、19日に帰郷。南相馬市役所と、一子さんの実家がある飯舘村の役場に届けたそうです。
その後、トシ子さんら身内の高齢者たちの世話に追われ、「地元の復旧作業の役に立つ」と思い立った大型1、2種、大型特殊の運転免許にも挑みました。(後日すべて合格)。動かずにはいられなかったのでしょう。そうして、潮をかぶった大地に再び種をまく日を待ちました。放射能の不安と風評という荒れた風も吹いています。
津波では萱浜地区の区長も亡くなり、八津尾さんは先日、その後任にも選ばれました。
「近隣で農家をやっていた仲間3人も、夫婦で津波の犠牲になった。残った自分が、その分まで担わなければ、とも思う。原発はもういらない。あと何年働けるか分からないが、地元で生きていける場をつくるために、若い仲間を募って会社を立ち上げ、農業を再興したい。企業経営的農業の夢は、まだ道半ばなんだ」
孤独な闘いではありません。その夢の中に、一子さんも生き続けています。

(写真・及川圭一)

(写真・及川圭一)
この取材は、河北新報連載「ふんばる」(5月12日付)でも紹介しました。 (Cafe Vita/寺島英弥) 「余震の中で新聞を作る」の連載は、ウェブマガジン「現代ビジネス」(講談社ジャーナル・ラボ)に転載されています。
「Cafe Vita」のトップへ福島第1原発から20キロ圏のすぐ外にあるJR磐城太田駅から、北東に約2キロの海岸部。約束の時間は午前8時です。南下してきた自衛隊の車列の後に続いて国道6号を左に折れると、間もなく周囲の様子が変わりました。
がれきやごみが散乱する田畑、道路脇の漁船、半壊した家々が現れ、背の高い防風林を縫って浜近くに出ると、そこは、ほとんど何もない荒れ野の風景。70戸あると聞いた集落は、津波で消えていました。
車を止めて目に入ったものは、たった1軒、北外れに半壊の姿で残った大きな日本家屋と、その前に並んだ自衛隊車両、行方不明者の情報が貼られた掲示板、その脇に立てられた鯉のぼりでした。掲示板には、「あきらめないで頑張りましょう」「ファイト!」のマジックの文字と色紙の花々。
その端っこに高校生らしい制服姿の集合写真が貼られ、何かの大会のメダルを得意げに見せる若者たちの中で、1人だけ顔を黒い円で囲まれた男子生徒がいました。彼もまた行方不明なのかもしれません。ふと、足元で光る物に気づいて、見ると、線香や献花に添われたメタリックの携帯電話が4本。どんな声を、最後に聞いたのでしょうか。
目を南に転じると、樹高20メートルほどありそうなケヤキが8本、鈍色の曇天にそびえ、遠目に枝先は芽吹いているよう。むき出しの大地に残った木々の下で、黒いトレーナー姿の八津尾初夫さん(61)が待っていました。
◇
自慢の広い家だったのでしょう。流されて土台だけになった母屋の玄関あがりに、「どうぞ休んで」と八津尾さんは勧めてくれました。周囲には、ぐしゃぐしゃになったハウスの残骸が見え、庭先には農業機械の部品やタンク類、ソーラーパネル、三輪車などが置かれ、最近植えられたらしいパンジーがまぶしいほどの色彩を放っています。
「いまも、午前2〜3時に目が覚めてしまうんだ」と、原町区の身内宅に同居する八津尾さん。津波の以前には、24棟・計60アール分のハウスが並び、びっしりと野菜や花の苗が育っていました。そして、春に4ヘクタール、秋には9ヘクタールものブロッコリー畑、水田が15ヘクタール。「苗や畑に水をやるのに、たっぷり4時間。それから一風呂浴びたもんだ」。自宅には、「八津尾農園」の看板が掲げられていました。パートの従業員が5人、繁しい時期には14〜5人が働いていたそうです。天井のない玄関で話を聴きながら、私は、失われた時を目の前の景色に重ねていました。
「毎朝、4時半にここに“出勤”して、線香を上げ、遺品を探したり、使えそうな機械の部品を回収したりするのが日課になった。トレーラーや、トラクターのローターがきれいに残っていたよ」
遺品とは、妻一(かず)子さん(58)の形見の品のこと。見つけたのは唯一、黒地に銀の模様が入った帯1本のみ。「日本舞踊の名取になった、2月に発表会をしたんだ。着物が好きで、たくさん持っていたんだが」。八津尾さんはにわかに声を詰まらせ、涙を浮かべました。
3月11日午後2時46分ごろ。八津尾さんは自宅から1キロ余り離れたブロッコリーの畑で、パート従業員と一緒に肥料散布をしていました。激しい地震に驚き、家が心配にになって、飛んで帰ったそうです。
「屋根の『ぐし』が崩れていたが、家族従業員も、誰もけがをしていなかった。隣の集落の北萱浜(95戸)に住んでいる本家のおじいさん、おばあさんも連れてきて、私の母(トシ子さん・80歳)や近所の人も一緒になって、プレハブの休憩室でお茶のみをしたんだ。女房がお茶を出して」。いや、おっきな地震だったが、何事もなくてよかった、と。
長男(和博さん・30歳)の奥さんが運転する車で、小学1年、幼稚園年少組、1歳の孫たちもそろって帰ってきました。予期せぬ団らんの楽しみが続くはずでした。
◇
「そうしたら。年寄りは何か昔の経験があったのだろうか、本家のおじいさんが突然、海の方を見て『くっとー(来るぞ)』と大声で叫んだ。900メートルほど東の浜にある松並木から大きなしぶきが上がり、一瞬で松は波をかぶって見えなくなった。その後すぐ、どす黒い津波が来た。高さ20メートルはあったような気がする。すかさず、みんな、車に飛び乗った」
南相馬市の海岸を襲った津波の映像(浜の名は不詳)を、ネットで見つけることができました。八津尾さんが語った通り、津波の第1波が松並木のあたり(その手前の防潮堤と思われます)にどーんという衝撃でぶつかり、恐ろしいほどの高さのしぶきが上がって、まるで城門を破壊した後の軍隊のように「黒い壁」が押し寄せました。
萱浜から段丘の緩い坂を下るとすぐ、ご本家のある北萱浜に至りますが、その集落も跡形なく消えていました。やはり一瞬のことだったと思われます。
八津尾さんは、トシ子さん、和博さんの家族の計5人、一子さんは本家の老夫婦をそれぞれ乗せ、2台の車で逃げました。西の国道の方向へ、八津尾さんは一辺100メートルの田んぼ脇の真っすぐな道で車を加速させながら、バックミラーで一子さんの車を見続けました。急げ、急げ、と。途中、カントリーエレベーターに向かう途中の交差点を右折した折です。「後ろを見たら、すぐ間際まで津波が迫ってきていて、女房の車が見えなくなった」
前方では電柱が倒れ、重いトランスがぶら下がって振り子のように路上に振れていました。八津尾さんの車は、「0コンマ数秒」にも思えた間隙をくぐり抜けました。「あれも生死の境だった」といいます。「止まらないで、行って」と怖がって泣く孫たちの声に抗いながら、それから3回、4回、止まっては後ろを見て、一子さんの無事を確かめようとを待ちました。が、ついに現れず、車は国道沿いにたどり着きました。
八津尾さんはあきらめず、知人の車を借りて引き返し、妻の車を探そうとしましたが、津波の潮が引かないまま。その後も、昨年のクリスマスに沖縄で結構式を挙げたばかりの長女(みゆきさん・35歳)の婿さんの父親と一緒に、懐中電灯を手に午後10時まで探し続けたそうです。しかし、見つかりませんでした。
「うちの女房は、娘の結婚を喜んでいた。親の役目を果たして一安心と喜んでたなあ」。家族だけで行った沖縄の思い出を語り、八津尾さんはまた声を詰まらせました。
◇
八津尾さんは、旧原町市(原町区)の農家に生まれ、父は昔ながらの養蚕と水稲を営む農民だったといいます。自身が農業を志したのは、26歳の時。親類の世話で福島県飯舘村出身の一子さんと見合い結婚をし、その翌年、小さなハウス1棟を建ててました。「父とは違う生き方をしたい。新しい農業をしよう」と話し合い、2人で野菜づくりを始めたそうです。
地元で種苗市があると聞き、野菜の苗を作って余ったものを出してみたら、売れたのです。「当時はナス、トマト、ピーマンしかなかったが、翌年も出したら、2日間で17万円も収入があった。さらに数年後には5〜7種類に増やし、売り切れないほどになって、『さて、どうしよう』と2人で頭を悩ませていたら、仙台市場に出荷していた地元の友人が『こっちの園芸市に出せ』と言う。
折から園芸ブームで、仙台でも飛ぶように苗が売れた。やがて、さばききれなくなって、首都圏にも販路を広げたんだ」
そのころには、コメ、野菜作りと3本の柱で地元でも先端的な複合経営の農家となっており、八津尾さんは「企業的な農家経営」への関心と意欲を深めました。一子さんも1997年に初めて欧州への海外研修に参加し、夫との夢を共有してゆきます。「たまたま、女房の海外研修と繁忙期が重なり、これを機会に人を使ってみようーと、そこから従業員の雇用も始まった」
八津尾さんは時間さえあれば、志を同じくする地元の農家仲間との苗作り研究会活動に取り組み、一子さんは 複合農業の経営計画や従業員の雇用管理を担当し、「二人三脚のパートナーとして頑張ってきた」といいます。
行方不明になった一子さんは、3月25日の午後2時20分に見つかりました。津波から逃げる途中、八津尾さんが車を見失った場所から700〜800メートルも流されて。重機が片付け作業をしていたがれきの下、愛車のシルバーメタリックの“CUBE”の車内で、守ろうとした本家の老夫婦と一緒に亡くなっていました。
「置き去りにしてきた」という自責の念に、八津尾さんは苦しんだそうです。一子さんとの思い出の品は、もう一つ残りました。2007年に受賞した福島県農業賞のクリスタルの盾です。流されることなく、自宅近くの畑の土の上に横たわっていました。
「農業経営改善部門」での受賞は、2人の夢の成果でした。「女房の力が半分。死ぬ時は、盾を半分にすっぺ、と言ってたんだ。お棺に入れてやろうと思った。が、できなかった。どうしても、できなかった」。俺には、まだ、やることが残っているんだ、と。八津尾さんは男泣きしました。
◇
自宅から2キロ近く西にある畑に、八津尾さんは案内してくれました。「見てくれ、葉が伸びている」。指差す先には小さな緑が芽生えています。約10メートルのうねに淡い帯となって。「大根だよ。2枚の子葉の間から本葉も見えるだろう」
4月8日に種をまいたそうです。隣のうねにはほうれん草の芽が出ており、カボチャの苗も小さなビニールの覆いの中で伸びていました。ジャガイモももうじき、と八津尾さん。畑の端には「塩害 テスト栽培」という札が立っています。すぐ近くの木立や民家の壁には、この場所でも1メートル近い高さの波が来たことの痕跡が見て取れました。周囲の田畑にはむろん、農家が一番忙しい季節だというのに、人影もありません。
「また、農業をやりたい。津波の潮をかぶっても、今までのようにやれるんだ、ということを実証したい」。被災地が背負った塩害の克服。八津尾さんが取り組む新しい仕事でした。
5月の連休にインゲン、枝豆、トウモロコシの種をまき、下旬にはトマト、ナスなど果菜類の苗を植えて、塩害に強い作物、弱い作物を、夏の収穫までテストしたいという。「田んぼの塩害からの復旧には時間が掛かるが、畑では何でもため試して、情報を農家や県にいち早く提供するつもりだ」
八津尾さんには、厳しい研究者のような篤農家の顔が戻っていました。
一子さんを喪くした痛手から立ち上がるまでに、八津尾さんもまた避難生活を送らねばなりませんでした。
津波の翌日、20数キロ先の福島第1原発で最初の水素爆発事故があり、放射能漏れの危機に地元でも、「自主避難」のための緊急説明会が開かれました。八津尾さんは親類の2トントラックを借りて、コメや毛布、燃料をトラックいっぱいに積んで、16日の深夜11時に出発。東京・あきる野市の次女の家に身を寄せました。
しかし、いても立ってもいられず、現地の町内やお孫さんの幼稚園の保護者や園長らに話して、毛布、衣類、薬、おむつ、日用雑貨などの支援物資をもらって、19日に帰郷。南相馬市役所と、一子さんの実家がある飯舘村の役場に届けたそうです。
その後、トシ子さんら身内の高齢者たちの世話に追われ、「地元の復旧作業の役に立つ」と思い立った大型1、2種、大型特殊の運転免許にも挑みました。(後日すべて合格)。動かずにはいられなかったのでしょう。そうして、潮をかぶった大地に再び種をまく日を待ちました。放射能の不安と風評という荒れた風も吹いています。
津波では萱浜地区の区長も亡くなり、八津尾さんは先日、その後任にも選ばれました。
「近隣で農家をやっていた仲間3人も、夫婦で津波の犠牲になった。残った自分が、その分まで担わなければ、とも思う。原発はもういらない。あと何年働けるか分からないが、地元で生きていける場をつくるために、若い仲間を募って会社を立ち上げ、農業を再興したい。企業経営的農業の夢は、まだ道半ばなんだ」
孤独な闘いではありません。その夢の中に、一子さんも生き続けています。

(写真・及川圭一)

(写真・及川圭一)
この取材は、河北新報連載「ふんばる」(5月12日付)でも紹介しました。 (Cafe Vita/寺島英弥) 「余震の中で新聞を作る」の連載は、ウェブマガジン「現代ビジネス」(講談社ジャーナル・ラボ)に転載されています。
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の被災した方々も、生活や街の再建に、さまざまな困難を背
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そう、再生しようと立ち上がる人たちがいます。
記者たちもまた被災地を古里とするがゆえに、そん
な人たちを応援し、さらに多くの人につなぐ役目をしよう、
と願っています。
「ふんばる」という連載もご覧になってください。そ
して、どうぞ、つながってください。
っていますね。私も頑張らなきゃて思わせるほど凄いです。
北の浜を望む