Cafe Vita
新聞は人のつながりを創るCafe。暮らし、文化、社会、メディア…。日々のニュースと私たちをつなぐものを探し、語りましょう。
余震の中で新聞を作る15〜相馬・南相馬へ/津波からの生還
3月25日に訪ねた相馬市柚木の老人保健施設「森の都」には、同11日の地震と津波の後、13人もの避難者が助けを求めて駆け込んだ、と聞きました。浜から逃れてきた1人の母親は、「黒い鉄の壁だった」と語り、「がたがたと恐ろしげに震えていた」と。「黒い壁」「鉄の壁」という言葉は、それから郷里で会った何人もの口から聞くことになりました。
相馬の街は、相馬氏の根城「馬陵城」を囲む旧城下の中村地区と、いずれも漁港がある原釜・尾浜(相馬港と海水浴場も)、松川浦、磯部という「浜」の地域に大きく分かれます。その間は距離にして4キロほど。ですから、中心市街はもちろん津波を免れました。
私の実家は中村のはずれにあり、周囲の被害はもっぱら屋根瓦が落ちたり、古い蔵の壁やブロック塀が崩れたり、というところでした。
実家も屋根瓦が落ちたのですが、修理されたのは2週間後。ようやく来てくれた瓦屋さんは、「なにせ700軒分の修理が待ってるもんだがら…」。地震の揺れの大きさはうかがい知れました。
先輩の夫婦が営む中村の街の喫茶店に立ち寄った時です。「これからどう生きようか。これからが大変」と、涙声で語る中年の女性客がいました。「職場も家も流され。子どもたちは、東京近郊に勤める上の娘の所に避難させたままで」。郷里の浜を襲った津波の話でした。
港に近い勤務先の製材工場では、事務所1階の神棚の高さまで水が上がり、積んでいた木材数百本がすべて流されたそうです。「製材業は厳しいんだよ。ここまで、みんなで頑張ってきたのに」
たまたま親から電話で呼ばれて事務所を離れ、その偶然で津波から助かったそうです。「私は泳げないから。命はなかったでしょう」
どんな津波が来たのか。翌26日、松川浦へ車を向けました。
◇
松川浦(古名・松ケ浦)は名の通り、潮の満ち引きで広い干潟ができる浦に、松の島が点在しています。東北では潮干狩りの名所の1つで、養殖の海苔も名産です。私は大学生のころまで、夏はハゼやカレイを釣りに行きました。浦に沿った県道には、釣りの貸し舟や道具の店、民宿や旅館、炭焼きの香りを漂わせる魚の店が建ち並んでいました。
その松川浦に至る2キロほど手前から、見慣れた風景は失われていました。
道路脇に大きな漁船がモニュメントのように横たわり、がれきを浮かべた泥の海がその先に広がっています。県道上だけは、がれきが取り除かれていましたが、やがて、またも目を疑いました。美しい浦に、家が浮かんでいたのです。湖上のキャビンのように。車、マイクロバス、ひっくり返った漁船も。
にぎやかな沿道の町は夏の幻影だったのか、どの家もがれきの山に埋もれ、1階部分はめちゃめちゃになり、床は泥まみれでした。
かろうじて壁や柱は持ちこたえ、流された家は当たりません。ある水産物の店先では、家族総出で片付けに追われていました。皆、防水の作業合羽とゴム手袋という浜のスタイルです。
何年記者をやっても、被災の現場では取材が一瞬ためらわれるのですが(地元であろうとなかろうと)、ともかく津波が来た時の模様を聞いてみることにしました。
「すみません」と声を掛け、名刺を差し出すと、さすが、からりとした浜の人でした。「ああ、おれは津波の時、いながったがらな。待ってろ、生きて帰ったやづがいっから」と、親類の若い男性に声を掛けました。
菊地良治さん(42)という松川浦漁港の漁船員でした。潮に漬かった家財道具を集積場に運んだ足を、こちらに向けてくれました。海の男らしい、いい笑顔でした。
◇
「大津波警報が出ると、漁港につないだ船にすぐ飛び乗って、沖に出したんだ。約100そうが、沖に逃げた」。係留したままでは、津波に巻き込まれてしまうからです。
津波の到達までは時間があり、4キロ先に至ったそうです。そこで津波をやり過ごそうと待ちました。大したことはあるまい、と。しかし。
「500メートルほど先に津波が見えた。たまげたよ。三角のとがった山みたいな、壁みたいな波で、7〜8メートル、いやもっとあったろうか。そのままじゃ、のみこまれそうだった」
沖合で船乗りたちがそれぞれ瞬時に決意したのは、真っ正面から「波を乗り越えよう」ということでした。
「大津波に向かって、船を走らせたんだ。だけど、全速で突っ切ると、波の上で、ぼーんとはね飛ばされちまう。 だがら、波の一番てっぺんで減速して、うまく乗り切らなきゃならない。命がけだったよ」
そして、まるで船の山登りのように波の壁を乗り切り、「越えたなぁ」と、ほっとしたのも束の間でした。
「そうしたら、同じくらいの距離を置いて、また壁のような第2波が見えたんだ」。 覚悟を決めて、もう1度挑んだそうです。
「それを越えたと思ったら、またその次の壁がやってきた」「津波と津波の間隔がすごく短いものもあった。全部で6つか7つ、越えたろうか。気がついたら、15キロ沖まで逃げていたんだ」
大津波との闘いは日があるうちに終わりましたが、いろんな方向から大きな引き波が次々とやって来て、「(宮城県)亘理町の方からも来た」。浜という浜の集落をなめつくした「帰り波」だとは、海の男たちにもまだ分かりませんでした。
「漁業無線で陸の状況を聞いたら、『警報がまだ発令中だから、収まるまでそこにいろ』という。仕方なく、海の上で一晩を明かしたよ。船に食料の用意もなく、急に腹が減って、どうしようもなかった」
松川浦漁港への帰りは翌日の昼前。途中の沖合では、「ゴミが流れてたまる潮目に、ありとあらゆるがれきが集まっていた」。 もはや、陸(おか)の惨状は疑いようのないものでした。 「ぶつかると危ないので、慎重に避けながら進んだんだ。誰かいないか、助けられないか、と思って、目を皿のようにして探した。けれど、がれきの間から手を振る人もなかったな」。
◇
話を聴き終え、店の向かいにある「水産物直売センター」を抜けて、松川浦に面した岸壁に向かいました。
週末は年中、遠来の客でにぎわう同センターもがらんとし、建物の横に大きな漁船が2そう重なっていました。
惨憺たる漁港の光景を覚悟して岸壁に出ますと、そこには、何事もなかったかのような静けさで漁船群がたゆたっています。菊地さんら、生還した海の男たちが守った船。あの笑顔の意味はここにありました。
三陸の浜では、同様に避難を試みた多くの漁船が、深いリアスの湾を出るまでの間に、高さを増した壁のような津波にのまれました。宮古市の重茂漁協では、780隻あった漁船のうち被災しなかったものは14そう、修理して使う漁船を加えても約30そうでした。また、相馬市を含む福島県浜通りでは、全漁港で1173そうあった漁船の8割が損壊しました(同県調べ)。
「板こ1枚の下は地獄」といいます。東北の海の豊かさと引き換えに、漁の仕事のいかに命がけなものであったか。陸に打ち上げられた漁船の無残な姿をいくつも見た後で、100そうが岸壁に並ぶ光景が奇跡のようにも思えました。
相馬の漁船群も、現在は、南50キロにある福島第1原発の汚染水放出問題で、「魚の安全性が確認されるまで操業停止を続ける」(福島県漁連の決定)という状況にあります。
海の男たちも、それぞれに家を流されたり、家族を失ったりし、命を落とした仲間も数多くいます。そこへ、原発事故の影。漁に出たくても出られぬ今への悔しさもありましょう。
復興への船出へ、より大きく険しいであろう壁を、さらなる忍耐と勇気で乗り越えなくてゆかねばなりません。


この回は、3月26日の状況を記述したものです。 (CafeVita/寺島英弥) 「余震の中で新聞を作る」の連載は、ウェブマガジン「現代ビジネス」(講談社ジャーナル・ラボ)に転載されています。
相馬の街は、相馬氏の根城「馬陵城」を囲む旧城下の中村地区と、いずれも漁港がある原釜・尾浜(相馬港と海水浴場も)、松川浦、磯部という「浜」の地域に大きく分かれます。その間は距離にして4キロほど。ですから、中心市街はもちろん津波を免れました。
私の実家は中村のはずれにあり、周囲の被害はもっぱら屋根瓦が落ちたり、古い蔵の壁やブロック塀が崩れたり、というところでした。
実家も屋根瓦が落ちたのですが、修理されたのは2週間後。ようやく来てくれた瓦屋さんは、「なにせ700軒分の修理が待ってるもんだがら…」。地震の揺れの大きさはうかがい知れました。
先輩の夫婦が営む中村の街の喫茶店に立ち寄った時です。「これからどう生きようか。これからが大変」と、涙声で語る中年の女性客がいました。「職場も家も流され。子どもたちは、東京近郊に勤める上の娘の所に避難させたままで」。郷里の浜を襲った津波の話でした。
港に近い勤務先の製材工場では、事務所1階の神棚の高さまで水が上がり、積んでいた木材数百本がすべて流されたそうです。「製材業は厳しいんだよ。ここまで、みんなで頑張ってきたのに」
たまたま親から電話で呼ばれて事務所を離れ、その偶然で津波から助かったそうです。「私は泳げないから。命はなかったでしょう」
どんな津波が来たのか。翌26日、松川浦へ車を向けました。
◇
松川浦(古名・松ケ浦)は名の通り、潮の満ち引きで広い干潟ができる浦に、松の島が点在しています。東北では潮干狩りの名所の1つで、養殖の海苔も名産です。私は大学生のころまで、夏はハゼやカレイを釣りに行きました。浦に沿った県道には、釣りの貸し舟や道具の店、民宿や旅館、炭焼きの香りを漂わせる魚の店が建ち並んでいました。
その松川浦に至る2キロほど手前から、見慣れた風景は失われていました。
道路脇に大きな漁船がモニュメントのように横たわり、がれきを浮かべた泥の海がその先に広がっています。県道上だけは、がれきが取り除かれていましたが、やがて、またも目を疑いました。美しい浦に、家が浮かんでいたのです。湖上のキャビンのように。車、マイクロバス、ひっくり返った漁船も。
にぎやかな沿道の町は夏の幻影だったのか、どの家もがれきの山に埋もれ、1階部分はめちゃめちゃになり、床は泥まみれでした。
かろうじて壁や柱は持ちこたえ、流された家は当たりません。ある水産物の店先では、家族総出で片付けに追われていました。皆、防水の作業合羽とゴム手袋という浜のスタイルです。
何年記者をやっても、被災の現場では取材が一瞬ためらわれるのですが(地元であろうとなかろうと)、ともかく津波が来た時の模様を聞いてみることにしました。
「すみません」と声を掛け、名刺を差し出すと、さすが、からりとした浜の人でした。「ああ、おれは津波の時、いながったがらな。待ってろ、生きて帰ったやづがいっから」と、親類の若い男性に声を掛けました。
菊地良治さん(42)という松川浦漁港の漁船員でした。潮に漬かった家財道具を集積場に運んだ足を、こちらに向けてくれました。海の男らしい、いい笑顔でした。
◇
「大津波警報が出ると、漁港につないだ船にすぐ飛び乗って、沖に出したんだ。約100そうが、沖に逃げた」。係留したままでは、津波に巻き込まれてしまうからです。
津波の到達までは時間があり、4キロ先に至ったそうです。そこで津波をやり過ごそうと待ちました。大したことはあるまい、と。しかし。
「500メートルほど先に津波が見えた。たまげたよ。三角のとがった山みたいな、壁みたいな波で、7〜8メートル、いやもっとあったろうか。そのままじゃ、のみこまれそうだった」
沖合で船乗りたちがそれぞれ瞬時に決意したのは、真っ正面から「波を乗り越えよう」ということでした。
「大津波に向かって、船を走らせたんだ。だけど、全速で突っ切ると、波の上で、ぼーんとはね飛ばされちまう。 だがら、波の一番てっぺんで減速して、うまく乗り切らなきゃならない。命がけだったよ」
そして、まるで船の山登りのように波の壁を乗り切り、「越えたなぁ」と、ほっとしたのも束の間でした。
「そうしたら、同じくらいの距離を置いて、また壁のような第2波が見えたんだ」。 覚悟を決めて、もう1度挑んだそうです。
「それを越えたと思ったら、またその次の壁がやってきた」「津波と津波の間隔がすごく短いものもあった。全部で6つか7つ、越えたろうか。気がついたら、15キロ沖まで逃げていたんだ」
大津波との闘いは日があるうちに終わりましたが、いろんな方向から大きな引き波が次々とやって来て、「(宮城県)亘理町の方からも来た」。浜という浜の集落をなめつくした「帰り波」だとは、海の男たちにもまだ分かりませんでした。
「漁業無線で陸の状況を聞いたら、『警報がまだ発令中だから、収まるまでそこにいろ』という。仕方なく、海の上で一晩を明かしたよ。船に食料の用意もなく、急に腹が減って、どうしようもなかった」
松川浦漁港への帰りは翌日の昼前。途中の沖合では、「ゴミが流れてたまる潮目に、ありとあらゆるがれきが集まっていた」。 もはや、陸(おか)の惨状は疑いようのないものでした。 「ぶつかると危ないので、慎重に避けながら進んだんだ。誰かいないか、助けられないか、と思って、目を皿のようにして探した。けれど、がれきの間から手を振る人もなかったな」。
◇
話を聴き終え、店の向かいにある「水産物直売センター」を抜けて、松川浦に面した岸壁に向かいました。
週末は年中、遠来の客でにぎわう同センターもがらんとし、建物の横に大きな漁船が2そう重なっていました。
惨憺たる漁港の光景を覚悟して岸壁に出ますと、そこには、何事もなかったかのような静けさで漁船群がたゆたっています。菊地さんら、生還した海の男たちが守った船。あの笑顔の意味はここにありました。
三陸の浜では、同様に避難を試みた多くの漁船が、深いリアスの湾を出るまでの間に、高さを増した壁のような津波にのまれました。宮古市の重茂漁協では、780隻あった漁船のうち被災しなかったものは14そう、修理して使う漁船を加えても約30そうでした。また、相馬市を含む福島県浜通りでは、全漁港で1173そうあった漁船の8割が損壊しました(同県調べ)。
「板こ1枚の下は地獄」といいます。東北の海の豊かさと引き換えに、漁の仕事のいかに命がけなものであったか。陸に打ち上げられた漁船の無残な姿をいくつも見た後で、100そうが岸壁に並ぶ光景が奇跡のようにも思えました。
相馬の漁船群も、現在は、南50キロにある福島第1原発の汚染水放出問題で、「魚の安全性が確認されるまで操業停止を続ける」(福島県漁連の決定)という状況にあります。
海の男たちも、それぞれに家を流されたり、家族を失ったりし、命を落とした仲間も数多くいます。そこへ、原発事故の影。漁に出たくても出られぬ今への悔しさもありましょう。
復興への船出へ、より大きく険しいであろう壁を、さらなる忍耐と勇気で乗り越えなくてゆかねばなりません。


この回は、3月26日の状況を記述したものです。 (CafeVita/寺島英弥) 「余震の中で新聞を作る」の連載は、ウェブマガジン「現代ビジネス」(講談社ジャーナル・ラボ)に転載されています。
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- 編集委員・寺
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- ※「累計」は過去31日の
アクセス数の合計を
表しています。
相馬では、うまい海の幸を買わせてもらってきた近隣
のある鮮魚店が、地元の魚が入荷できず、休業してしまいま
した。
まことに残念な、海の仕事に関わる人々には無念で悔
しい状況が続いています。
三陸の街々でも同様でしょう。1日も早い東北の浜の
復興を願い、応援してゆかねばなりません。
三陸の美味しい魚を食べていたのを思い出します。
また、三陸の美味しい魚を食べたいです。
いらっしゃいませ。ありがとうございます。
「津波てんでんこ」は生きていたと思いますが、痛ま
しいのは、津波犠牲者の54%が、65歳以上の高齢者だっ
たとの事実が調査でわかった−というニュースです。
高齢者が支え合う田舎を津波が直撃したのですね。逃
げられない人たちをどう守るか−は、余震の中で(14)の
「森の都」の闘いも投げかけるものだと思います。
沖に避難しようと試みて助かった船は一握りで、多
くは津波にのみこまれたと聞いています。あらゆる意味で、
命がけだったのだと思います。
よいソフトウェアが残っていましたね。
ありがとうございます。陸前高田のしょうゆ造りの老
舗が、再生に歩みだされましたね。ほんとうにうれしいニュ
ースでした。
各地から、そうした足音が広まりますよう、まず買う
こと、食べることから、東北の生産者たちを支えてゆきたい
ですね。
津波・原発事故の被災地では、農業、漁業が深刻な状
況です。再生を担う人々、その未来への種を、大切に応援し
てゆけるよう、伝え、つなぐことに、地域の新聞が役立てた
らと願います。
群馬の司法書士斎藤幸光です。
一昨日、いわき市から6号線を北に向かい、
半径20キロの立ち入り禁止線に何度もぶつ
かりながら迂回して、予定よりも2時間ほど
遅れて南相馬市の原町地区のホテルに着
きました。ホテルは、応援にやってきた地方
自治体職員を中心にした客で満員でした。
日本のマスコミは福島への立ち入りを自粛
中らしく姿は見えず、「マグナム」のカメラマン
がいました。キャパのファンである私にとって
は印象的でしたが、その分、日本のマスコミ
の姿勢に落胆しました。「風評被害」を批判し
ながら、自らは放射能を恐れて尻込みするよ
うでは情けなく思います。
昨日未明、南相馬市役所に行くと、人々が並
んでいました。理由を聞くと、「新聞を待っている」
と答えました。「福島民友」という新聞社が配布す
る新聞を待っているのです。後で聞くと、650部ほど
を手渡したそうです。そのおじさんは、誇らしげでし
た。
昨日は南相馬から6号線を北に走り、宮城県の
山元町役場で毎日新聞記者と合流しました。
記者の案内で、避難所や遺体安置所、仮埋葬
地などを回りました。
野田先生が被災者の話を聞く傍らで、私もまた二人
の話を聞いていました。
6号線を北に、名取市に入り、避難所で話した方の
ご案内で津波に襲われた家まで行きました。築3年
というその家は、瓦礫の中に建っていました。二階の
ベランダの上まで水に漬かっていました。
足元に写真があることに気付いて見せると、まったくの
他人だとのこと。自分の家族の写真がなくなり、他人の
家族の写真がありました。壁掛け時計は4時少し前で止
まっていました。地震がおきてから一時間ほどして津波
が来たといいますから、これがその時間なのでしょう。
その家は5人家族で、次男が亡くなり、奥様は行方不明
です。避難所から500メートルほど東の中学校まで移動し
ようとしたとき、津波が来たそうです。避難所の二回に残
った人々は生き残り、外にでた人々の多くが津波にさらわ
れたと聞きました。
今日は、石巻と女川、気仙沼に参りました。自分の想像力
の限界を思い知らせれた行程でした。
気仙沼では仮設住宅が建築中です。阪神淡路のときも感じ
ましたが、仮設はまるで「収容所」です。ここで2年を過
ごす
のかと思うと、暗澹たる気持ちになりました。仮設一個作
る
のに、いくら費用がかかるでしょうか。
野田正彰先生は、仮設にかかる費用を被災者に渡し、被災
者たちが話し合ってお金と知恵を出し合い、寄り合う家=
コ
ーポラティブハウスのようなものを造るほうがよほどよい
ので
はないかとおっしゃいました。私も同意見です。避難所は
劣
悪な居住環境であり、そこから見れば仮設は確かにうれし
い
でしょう。しかしその喜びは、次の希望ではなく、失望に
つな
がっているように思えます。限りある生を生きる人間は、
期限
のある苦難には耐えますが、終わりの見えない苦悩には耐
え
切れません。仮設で二年暮らすこと、それもその先が見え
ない
状態で暮らすことが、どれほど被災者たちの苦痛を増すか
、阪神
淡路の経験によって学んだのではないでしょうか。
いま、この文章を古川駅前のホテルで書いています。明日
は群
馬に帰ります。そしてまた、南相馬をはじめとした被災地
を訪れ、
自分にできることをしようと思います。
この度の災害を、政府は、「東日本大震災」と名づけたと
いいます。
野田正彰先生は、3月28日に、「これは震災ではない。津
波災害だ」と言われました。被災地は地震災害で破壊された
わけではなく、地
震が引き起こした津波によってさらわれたからです。死者
・行方不明
者と負傷者の数が、阪神淡路大震災と逆になっている理由
が、野田
先生の言葉と、実際に被災の現場を見ることによって得心
しました。
この災害は、震災ではなく、津波災害であること。それを
明確にし
ておかないと、大きな誤解が生じると思います。
私は、このたびの災害を、地震・津波・原発事故が時間的
に接続して
起きたこと、そして、それらが順次起きることによって被
害を拡大して
行ったことに着目して、「東日本複合大災害」と呼ぶべき
ものと考えま
す。このように呼ぶことで、現在の日本が陥った苦境を正
確に認識で
きるのではないでしょうか。
気仙沼で、河北新報気仙沼支局のビルを見ました。夕暮れ
に月が出
ていました。潮が気仙沼の市街地だった廃墟の足元を濡ら
していまし
た。私は、「海没を原因とする土地の滅失登記がされるの
か」と考え
ていました。恐るべきことです。ご自重ください。
けられます。
でも、津波を乗り越えた話と、漁師さんの笑顔に、東北の
海は、絶対に再生すると思いました。
感謝です。